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塚本修さん×うさぎの喘ギ・泉宗良

​第3回公演「うさり」、そして前作「まちがいない。」とうさぎの喘ギの変遷を観て来てくださっている、舞台監督の塚本さんにお話をうかがいました。

<「まちがいない。」について>

―今回は、第5回公演「まちがいない。」公演後対談ということで。第3回公演「うさり」から「まちがいない。」への変遷や、さらに「うさり リクリエーション」への展望をお聞かせいただけたらと思っております。まず、「まちがいない。」のご感想からお願いいたします。

塚本修さん(以下、塚本):だいぶ時間が経ってるから、忘れてるところもあるかもしれないけどね、DIVE共催の観劇講座で課題作品として選び、その劇評にも出た意見で、アンケートの感想にも書かれてたと思うけど、チェルフィッチュに似てるとかね、いろいろ言われてたと思う。私見では、未だ「こういう方向性でやっていくんだ」っていうのが見えない。でも、だからそれがだめってわけじゃないと思うのね。

この作品は、一つの物語として「終わり」みたいなものに向かっていく感じではない。その街の中の、ある一部の人たちの話を、どこからどこまでと言ったまとめ上げた話ではなくて、その生活の中の一部分だけを切り取った構成になってるよね。そこにドラマ性は別に特になくて、そのまんまの生活の切り取りとして我々は受け取った。その切り取りを、かなり異化効果を使った作品にしてあったやんか。でもその異化効果が、完全に異化しきれてるかと言うと、あまり成功してるとも思えないんだな。何をもって異化効果するかが、つまり異化した小道具や設定が「なぜそれなのか」ということが問われてくると思うのね。もっと中盤以降に、「あ、だからこういう演出なんだ」と言うことがもっと伝わってきたら、もっと面白かったと思うんだけど、それが中途半端に伝わり切らないのが残念だった。そのあたりが作品としても非常にもったいなかったかな。やり方としては全然間違ってないと思うし、この方法論で全く良いと思うんだ。


例えば舞台美術の使い方でブルーシート敷いただけの舞台の上が少し歩きにくいという状態が、街の中で生きてる人たちが「生きにくそうに歩いている」という状況をメタファーとして写し出している。その他、登場人物の動きにしても、小道具にしても、あるいはセリフの一つ一つにしても、いろんなメタファーが施されていて、それを強く感じるので、その点においてはよくできていると思う。ただ、物語として衝撃的な事件が起こるわけでもないから、観客はズドンと感性に来ないんだよね。その辺で、リピーターとなる固定の観客を劇団がどう作っていくかが、他人事ながら心配よね。このスタイルでどのくらい続けていけるのか。

もっとお金があったら、できることもたくさんあると思うのよね。でも今回のようにお金のない中、低予算で最低限のものだけを揃えて作劇してると思うので、舞台美術にしても小道具にしても「これはどうでもええわ」と言う感じで安直に作ってるわけではない。でもそれがうまくお客さんに伝わってきてないかなと。その辺がもどかしいね。考えてるんだろうなってことはもちろん感じ取れるけど、何となく見てるお客さんまでは伝わらないだろうなって思うのよね。

<小道具について>
塚本:作品の内容自体はすごく面白かった。それぞれに切り取った人間関係の話がみな魅力的で、全部結末があるようでないような話だから、どこで終わってもいいんだけど、終わらせどころはあれでよかったと思う。小道具の異化効果を最終的に歯ブラシに全部集約していくのだけど、他の小道具は不要で歯ブラシだけでも良かったかも知れない。

泉宗良(以下、泉):小道具なしで最後の歯ブラシだけっていうのは、僕もアリかなって思ったんです。でもそう考えた時に、チェルフィッチュからどう脱却するのかという問いが自分の中であって、それを越えられなくて。それだったらある方がまだオリジナリティが持たせられるのかなっていうところで、小道具ありを選択しました。小道具なしってなったときに、よりチェルフィッチュに似てるっていう風に捉えられる方が怖かったですね。

塚本:小道具として使うと決めたからには、もっとそこに深い意味を持たせないといけないかな。無意味と言う意味も含めて、異化効果として使うなら特に。

泉:確かに小道具は詰め切れてなかったかなって思うところもあります。「うさり」のときから役者の数が増えるにつれて、小道具の数も増えるってなったときに、シンプルにアイディアがわきにくくなってくるっていうことで、苦しんだなと思います。今も苦しんでるんですけど(笑)。

<スタイルの固定化?>
―「うさり」を見ていただいて、約一年後に「まちがいない。」上演されて、何か変化は見られましたか?

塚本:成長は大いに見えると思った。でもまだまだ実験的なことをやってみて良い段階だと思う。小道具の扱いにしても、今は未完成で苦労して考えて結局詰め切れずに消化不良になってると思うのね。でもいずれ「なんでこれ持たせてるの?」って聞かれたときに、もっと明確にすらすらと答えられるようになると思うのよね、自分の中でもっと明確に答えが見いだせるようになって。で、今はその途上なのが作品から見える。全くこの方向に行かなくてもいいし、試行錯誤の中で違う演出方法が見い出せるなら、それはそれで面白いやろうし。

あんまり公演の回数を打つことは関係ないかも知らん。ずっといろんな劇団を見てきたけど、劇団のスタイルが確立するまで10年ぐらいかかってる。それはその集団が何回公演を重ねたかではない気がする。若手の劇団で1年に5回公演する劇団もあるし、年に1回しかやらない劇団もあるけど、精神が熟して方向性を定めるには10年ぐらいのサイクルが必要で、迷いのない作品はなかなか完成しないんじゃないかと思う。試行錯誤をたくさん繰り返すか、1回で多くを学び着実に力をつけていくかの差だけで、明確なスタイルを手に入れるためには早くても5年以上はかかるんじゃないかなな。だから、急ぐ必要は全然ない。

この先、一番悩むところは観客がなかなか増えないことかな。どこもそうだけど、もっと見てほしいし解ってもらいたいのに、なかなか理解してもらえない。

泉:「うさり」と「まちがいない。」の大きい違いとして、役を入れ替えるってことを止めてみたんですけど、それはどう映ったんでしょうか。

塚本:わかりやすくなったと思う。役を入れ替えたり、一人の俳優が多くの役をやるとか、最近ではよくある手法に思う。「うさり」の3人で役を回していく構成はあれはあれで面白かったけど、観客に対して解りやすくしたいのか、それともあくまで自分のスタイルに拘るのか。観客に伝わらなくても自分が目指す確固たるスタイルがあって、そこにちゃんと意味があると思えるなら、そのスタイルに拘らなければならないと思う。

泉:「うさり」の次の公演(2018年6月第4回公演「泣きたいp.m.、泣けないa.m.。」)で、もう役を入れ替えるってことはやめたんですよね。その作品は震災をテーマにした作品だったんです。

「うさり」は妊娠に実感を抱けない女性の物語だったんですけど、それは妊娠っていう自分の体に起こってることにリアリティがない・抱けないっていう発想でした。でも震災の話は、僕ら大阪で中学2年生の時に震災をテレビで見てた人間が、役を入れ替えるってことをやるのは違うんじゃないかなと思って。「うさり」は妊娠っていう、自分の身に起こったことで、その実感のない状態で役を入れ替えていって、最終的に妊娠という実感を取り戻したときに、一つの俳優に一つの役が付くっていう演出論だったんですけど、震災は僕の身に起こったことではない、元々外にあるものじゃないですか。元々外にある震災を、僕たちが実感として獲得できるっていうことが、どうしても信じられないというか。僕らは震災に実感を持てないまま、過去になっていくのを見つめていくしかない、みたいなことを感じた時に、役を入れ替えるっていうことではなくて、4人が震災ということに対する実感を獲得できない…僕たちが大阪にいた時に、東日本の方で起こった悲惨なことを、実感を得ないまま、月日が経って行って振り返るっていう作品なんじゃないかと思ったので、その時に、役を入れ替えるってことが適切ではないって感じたので、その方法をやめたんですよね。

<「実感の喪失」というテーマ>
―「うさり」は妊娠という自分の身に起こったことに対する実感のなさ、「泣きたい~」は震災という自分から遠く離れた出来事に対する実感のなさを描いていましたが、そうなると「まちがいない。」は一体どういう実感のなさだったんでしょうか?

泉:あれはもう、実感がない人たちの話なんです。だから、実感を取り戻していくとか、実感が持てないものを見つめるというよりかは、この整理整頓された街で暮らしていく中で、知らぬ間に実感を喪失させられていっているという状況を描くことに意味があったと思ってて。だからあんまり、実感がどこにあるから、とかじゃなくて、もう実感というものは、この街にいる限り失われてて、っていうイメージですかね。もう実感がないっていうことが街全体を覆っているイメージなのかな。

塚本:僕は年齢的にも若い演劇人に比べて多くを経験し過ぎて、同じ観点から物事を見られなくなってて、だから演劇にしても何が良いかとか何が悪いとか、もう明確に出来なくなってしまうのね。演劇で何をやっても、何を見せられても許せるほどになって来て。若い頃には作品の好き嫌いもあったし、こんな芝居ダメだよと、こき下ろすこともたくさんあったけど、だんだん許容範囲が広くなって表現の全てが許せるようになってきたのよね。「そういうのもありだよね」っていう風に変わっていくみたいだね。「うさり」で妊娠を実感できない女の子とか、「まちがいない。」にしても、震災にしてもそうだけど、自分の住んでたところが無くなっていくというような感覚が、長く生きていくとだんだん薄れていくんだよね。さらに言えば、自分の中にあった、実際に自分が体験したことですら、かなり薄くなっていくのよ。これは、良いことか悪いことかわからないけど、悲しい出来事まで徐々に悲しくなくなっていく。それは多分、同じような経験を積み重ねた「慣れ」なんだけどね。歳をとると色んなことに慣れてしまう。だから絶対に今しかできないこととか、今しか書けないことをやることが重要で、それを確実に今しているのだから、作品の成否はともかく非常に大切なことだと思う。僕らには絶対に作れない作品を見せてくれている。

泉:ありがとうございます。

塚本:劇団のテーマというか、描こうとしてる世界が、同世代の人たちがやらないことに思える。多くの若い団体が描くのは自分の物語であったり、観客に見せたいものが明確だと思うんだけど、「実感のなさ」という不確かなものに魅入られて戯曲を書いてるのはどうして?

泉:僕自身が、実感があまりないような人生を生きてきたなと思ってて。でも多分、こういう、実感ないなっていう感覚、例えば震災とか大きい出来事があっても、あんまり悲しくないなっていう感覚・自分の心の「慣れ」の違和感は同年代の人たちが感じる瞬間ってあるんじゃないかなって、そしてそれは、現代になるにつれて増えていくんじゃないかなって思ったんです。そういうことを、お客さんと一緒にこの問題を考えて行けたらなっていう風にも思いますし、そこに寄り添いたいというか、僕たち若者が共感できることなのかもしれないなって思ってて。自分自身の中で感じている感情で、他の人とも共有できる瞬間があるだろうと思えるテーマで、意外とみんなやってないなら、僕がやろうかなって思って、このテーマを掲げて創作してるって感じですかね。

塚本:感覚的には、僕らというか、もっと歳を取った人に近いと思うのよね。でも、年寄りはあえてそれをテーマにしない。自分の中で薄らいでいってるものだから、それをわざわざテーマにはしないし、描く気持ちまでも薄らいでる。それに共感する若者が多いとも僕には思えないけど、でもそれが間違いというわけじゃない。どんな表現であれ、表現自体は中立のものに思う。

でも、何をもって成功と捉えるかの戦略は大事だと思う。それは観客の動員数なのか、それとも大きな賞をたくさん受賞することなのか、自分にとって大切な人に認めてもらうことなのか、価値観はそれぞれみんな違うけど、戦略としては目的を定めないと方向性が決まらない。過去には幸運にも自分がやりたいことを続けて動員が増えたところもあるし、たまたま受賞を重ねた劇団もある。でも現在は劇団数が圧倒的に多くなってきたから、ある程度は戦略を立てて公演を打たないと偶然にはあまり頼れない時期にきたよね、今と言う時代は。


<「うさり リクリエーション」の展望-男性が増えることを中心にー>
―「うさり」のリクリエーションということで、どういう展望があるんでしょうか?

泉:とりあえず、2周はやめておこうかなって思ってます。

塚本:必要性があれば2回やればいいんちゃう? 初演の時は、2巡目がどう変わっていくのかをまず見たよね。なぜ同じことを繰り返すのかってことが作品の一番根っこにあると思って見たから。でも、全く一緒やんか。そこで例えば、子供を産むことを決意するとか、他の違う選択肢を選んでいくことが、その違いを見せることが演劇なんだと思うんよね。同じことを2回繰り返すだけなら、1回で解るから2回しなくても良いのでは、と言うのが講評会での大体の総意だったかな。

泉:そうですよね…

塚本:でも、2回見たからよく分かった。

泉:(笑) あと違いと言えば、俳優の数が増えます。男性が増えるんですけど、でもこの作品においては妊娠っていう出来事がやっぱり大きな出来事なんですよね。それを喪失しているっていうのが、物語として一つの大きな枠なんですけど、男性が妊娠に対して実感を持てるようになるっていう結論になっても、嘘くさいなって思うし、だから今、どう物語として展開していくべきなのかってことを、悩んでる最中で…。

でも、シンプルに男性の俳優の身体の持つ暴力性みたいなものを稽古場では感じてます。「まちがいない。」とか他の作品は、元から男性がいるっていう想定で作ってたから、あんまり感じなかったんですけど、「うさり」は女性3人だけの世界で作ってた作品で、その中に男性2人を追加して作るときに、男性の肉体ってだけでもたらされるイメージみたいなものが、結構強烈にあるのはあるなとは感じてて。それはおもしろさにもなると思うんですけど、慎重に扱わないと難しい点だなって風に感じてます。

戯曲としても、どういう結論にするのがいいのか。説得力のないものにはならないようにしないといけないなって思ってます。全部わかります、みたいな感じにしちゃうのはまずいかなって思ってて。

あとイロリムラでやるんですけど、その場所は電車が通ったりして、振動が伝わってくる劇場なんですよね。なので、その劇場自体をお母さんの子宮みたいな感じで使えたら面白いかなみたいなことは思ってます。展望としては、男性の俳優が加わったことによって、表現できるものがあるということと、場所がブラックボックスであるウイングフィールドからホワイトボックスのイロリムラに変わって、どちらかというと(うさぎの喘ギは)ホワイトボックスの方が似合ってるみたいな風には言われるので、そこで場所の持つ力を借りることが出来たらなとは思ってます。

塚本:初演がそれなりにまとまってて、3人の女優がそれぞれの役を変わりつつ3つの個を表現することが、すごく効果的にできてた。だから、それを失わずにうまく拡大したバージョンが出来上がった良いけど、逆にそれがうまく機能しなかったら取って付けたようになってしまうから、そこに気を付けて良い作品に仕上げてくれることを期待するね。

泉:ありがとうございます。

塚本 修(ツカモト オサム)
1958年滋賀県彦根市出身
甲南大学理学部応用数学科卒
stage staff/CQ代表
舞台監督・演劇アドバイザー・演劇コメンテーター・高校演劇審査員・舞台技術講座講師
趣味の演劇が高じて大学を卒業と同時に劇団日本維新派(のちの維新派)に入団。退団後は舞台監督となり、小劇場に舞台監督を根付かせた草分け的存在となる。
その他、演劇制作、コンクール審査員、作品解説者と、演劇を生業として現在に至る。