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西尾孔志さん×うさぎの喘ギ・泉宗良

映画監督である西尾孔志さんにお話をうかがいました。

<うさぎの喘ギの作風>

―いつも皆さんにも同じようにお聞きしているのですが、率直にご感想をお願いいたします。

 

西尾孔志さん(以下、西尾):感想は、はっきり言うと、20代前半の人たちの演劇だなあっていうのがまず一つです。私は40代なんですけど、40代になってくるともう一歩踏み込みたいとか、もう少し自分に見えてきているものがいろいろあったりするんですけれども。ただ、その20代で見えている実感の喪失とかそういうことに対して、かなり誠実かつ慎重にやっている劇団だなと思って、面白く見させていただきました。

 

―西尾さんは映画監督としてご活躍されていますが、普段演劇は見られますか?

 

西尾:ものすごくたくさんは見ないんですけど、年に5,6本くらいは見ています。一時期はすごくたくさん見た時期があって、それがちょうどチェルフィッチュが台頭してきたとき、あと東京でフェスティバル・トーキョーが盛り上がってきて、京都でもKYOTOEXPERIMENTが始まったっていう時期は結構見てましたね。その頃に観てた劇団が大阪の方に来てたら今でも見に行くってくらいで、最近は20代の劇団はほとんど見てないですね。あ、でも最近色々なつながりがあって小骨座を観ました。偶然にも20代の劇団を続けてみたことになりますね。

 

―小骨座さんとうさぎの喘ギだと、全然作風が違うと思いますけども…

 

西尾:さっき泉さんがちょっとだけご自身でも仰ってたけど、大学の劇団同士のつながりがあんまりない、ほとんど奈良のような場所(※泉・中筋は大阪教育大学出身)で、独自にやってきていらっしゃるんですよね。それが功を奏したのか、京都の学生劇団とちょっと近いのかな?と思います。

 

泉:それはよく言われますね、大阪っぽくないとか。

 

西尾:大阪は、ドラマというものに結構重きを置いてる感じがしますよね。あとコメディだとか、そういうエンターテインメントに重点を置いたものをやろうとしているような印象があります。京都はそれとは別に、現代演劇とか、舞台芸術っていうところにかなりこだわってるような劇団が多いので、それと同じ肌触りはありますね。もう何年も観に行ってないですけど、京都学生演劇祭によく行ってた時期があって、そこにうさぎの喘ギが並んでても、「あ、京都の旬の劇団だな」って感じで(笑)大阪の人だって聞いていたので、そういう意味では意外な毛色でしたね。

<泉宗良の演出方法について>

西尾:泉さんは演劇を始めるきっかけって何だったんですか?

 

泉:大学に入った時に、文章を書きたいけど文芸部に入るほど最近本読んでないなって思って演劇にしました。

 

西尾:演劇舐めてるじゃないですか(笑)文芸の方が上、みたいな。

 

泉:そうなんです。最初は演劇を舐めてサークルに入って、でもぜんぜん面白くないなって最初は思ってました。で、同じサークルにいた中筋が、もう解散しちゃったんですけど、べろべろガンキュウ女っていう団体の公演に出たんですよ。それを観に行ったんですね。そこで初めて小劇場演劇を観て、面白いって思ったんです。それで自分でもやりたいって思って、その半年後に旗揚げしてここまで来たって感じです。

 

西尾:じゃあそれまではそんなにたくさん演劇観てたって感じではないんですね。

 

泉:そうですね、全く観てなかったです。

 

西尾:中筋さんも?

 

中筋:まあ、わたしもそんなに…キャラメルボックスとか大きいところはちょくちょく観てましたけど、小劇場演劇は年に数本くらいで、たくさんは見てなかったですね。

 

西尾:今日稽古見ていて、戯曲の作者である泉さんと、作品全体を動かしていってる中筋さんっていう構図が面白いなと思いました。もちろん、演出っていう名前なので、ジャッジは泉さんがしてるんですけど、演劇におけるジャッジすべきもののヒントを、中筋さんがいいパスを送っているなと、そのコンビ感がいいなと思いました。この劇団がこういう風な作品を作るのは、この二人だからなのかなと。例えば泉さんだけだったら、ひょっとしたら戯曲は書けるんだけども演劇になかなかならないかもしれないというか。これは、今日の数時間稽古を観た印象なんですけど、泉さんはなかなか決められない人だなと思いましたね。

 

泉:あ、でもそれはそうだと思います。

 

西尾:それが功を奏したのか役者さんたちがシーンを自分たちで深く掘っていくっていうことが起きてるんだなと思います。これをしめしめと思ってやってるんだったら泉さんは相当なタマだと思うんですけど、横で今日見てるとこの人は天然だなって思いました(笑)でも、役者さんに考える機会をちゃんと作ってあげてるのが印象的でした。

あと、これメモの最初に書いてあるんですけど…「敬語の関係の劇団」っていうのをあんまり見たことがなかったんですよ。演出家さんも役者さん同士もみんな敬語でしゃべってて、それはすごくうさぎの喘ギっていう団体の個性だと思いました。いくつか見てきた劇団の中で、やっぱり座長とか演出家っていう人が、かなり主導権を握ってガンガン進めていくタイプっていうのが割と多かったので、そういうとこと比べると、すごく全員がフラットで、みんなストレスを感じていないように見えてすごくいいなと思いました。なかなかないですよね。

 

泉:それは自覚してるんですけど、何かを狙ってるわけではなく、「無自覚に敬語を使ってるな」っていう自覚だけがあります。

 

西尾:ちょうどこの前、匿名劇壇の「大暴力」っていう作品を観たんです。あれってみんなが当たり前に思ってる劇団内にあるちょっとした圧力とかヒエラルキーみたいなことを描いていた作品だったんですけど、ここはびっくりするくらいそれがないですね。誰も圧力をかけないし、誰もストレスがなさそう。それは、今後批判が出るかもしれませんけど、ずっとやっていってもいいんじゃないかなと思いますね。

 

泉:僕は自分の枠を超えたいっていう欲求があるんですよね。僕が演出で、僕が全部指示して作った作品は、僕の枠組みの中の作品にしかならないと思うんです。だから…まあ、優柔不断っていう性格もあるにはあるんですけど、あんまり僕が決めすぎたら、作品が小さくなるだろうってのはずっと思ってますね。

 

西尾:それは泉さんの中に哲学があってやってるんだろうなと感じました。

 

<男性作家が「女性」を描くことに関して>

西尾:今回の作品は実感の喪失っていうのがテーマなんですよね。それはどんなきっかけで書き始めたんですか?実体験ではないですよね?

 

泉:実体験ではないです(笑)実感の喪失ってテーマは「うさり」の前の作品(※第2回公演「umi.」)から掲げていこうと決めていたんです。で、脚本を書いていた2017年の冬ぐらいに、なんでか堕胎の話題をTwitterでよく見かけていたんです。あと、毛糸を編んでいって解いていくっていう演出が先に思いついてて、それで妊娠の話をやりたいなって思って、書きはじめました。着想としては、演出が出発点だったんですよね。

 

西尾:泉さんは普段から「実感の喪失」ってことを感じてるんですか?

 

泉:そうですね、これを創作のテーマとして掲げてるのも、僕自身が実感のない人生を送ってきたっていう自覚があって。あんま苦労せずに生きてきたなって。

 

西尾:まあ大学生ですからね(笑)

 

泉:まあそうですね(笑)なんというか、どんどん自分の身の回りのものがシステムによって本質から分断されたり、VRとかに置き換えられていったりとか、リアリティってものを獲得しないように社会が出来ていってると感じてるんです。特に思うのは、Twitterとか見ていると、悲劇がいっぱい流れてくるわけですよね。最近でいえば京アニで火災があって35人が亡くなったとか。それがタイムラインに流れてくる、それを悲しんでいる人のコメントも流れてくる。そういうのにいちいち全部感情移入してるともうこっちがもたない、ってなったときに、もう実感を持たずに流してしまおうっていう感覚が僕の中にあって。でもそれが行き過ぎた時に、何か恐ろしいことになるんじゃないかっていう危惧が僕の根本にあります。

 

西尾:なるほど。20代の劇団の作品だなって思った一番大きな理由は、その実感の喪失っていうところなんですよね。僕が20代だったころも確かに実感の喪失とかいうことに関して、わかるなあというか、あるあると感じてた。あの時代の気持みたいなものが見てて揺らされました。年取ってくるとね、すぐに実感がやってくるんですよ。

一つは、30代になってくると身体的に衰えがやってくるので、そういう身体的な実感がやってくるんですよ。例えば腰が痛いとか。で、腰が痛いと、今まで20代とかでは動けていたことが億劫になったり。

あと単純に、今泉さんは大学生でいらっしゃるけど、自分が中心になって仕事を動かすということが起きると、そこには実感がどうしても伴ったりするじゃないですか。今でも、演劇をやっていることに対しては実感が伴っているはずなんですよね。

でも日常生活の中で、実感の喪失が起きているのは、すごくわかります。そういう意味で言ったら、実感を失っているんだけれどやってきてしまう実感、っていうところまで見せてもらえると、「大学を卒業したな」って思う(笑)僕が次見せていただきたいなって思うのは、さらにそこから踏み込んだところですね。アカリさん自身はお腹の中に、フィジカルに、子供がいるわけですよね。それは実感と言うよりも、身体的に変化が起こるわけですよ。そこがやっぱり男性作家の弱いところで、女性はやっぱり身体的に実感がわいてくるんですよね。そこは描かれてなかったのでもったいないなと思いました。男たちって、生理もないですし、体に対して強く何か思うことって少ないけど、女性は結構あると僕は思ってて。今日印象的だったのは、通し稽古が終わった後、中筋さんが「毛糸をこう手繰り寄せていって、あれが熱くなったから手から放した」って言ってたのは、すごくいいボールを蹴ったなという風に思ったんですけど、泉さんはそこはあんまりよくわかんないですけどっていう感じで流してしまっていて、そこがもったいないなと思いました。中筋さんは多分演じる側だから、フィジカルにやっていく中で頭の中の想像とかいろんなものが温度になったりするわけですよ。それを演出家に伝えてるなと思ったんですけど、泉さんの方は割とテキストに拠っている感じがあって、そこは「どういう意味?」って掘り下げる泉さんがみたかったなと。そういうところをないがしろにしていくと、テキストからなかなか越えられないのかなって。やってみて、それはやっぱりやりすぎだからやらないとかそういうジャッジはあると思うんですけど、役者からおかしなことが出てきたぞ?って時にどうするのかってことですよね。もちろん、役者に色々やらせてみて、その中で泉さんがジャッジするっていう形にはなってるんですけど。

 

泉:なるほど。

 

西尾:あと、この話には深刻さが本当はあるんだけど、それをみんな避け続けて、でも一人だけ女の子が追い込まれていく話と言う風に僕は観たんですけど、泉さんはこの戯曲の構図というか、女の子の置かれている状況って何から着想されたんですか?

 

泉:具体的なものがあったわけではないんですけど、今の世間のパワーバランスはそうなっているのかもしれないということは考慮しながら書きました。あとはこの作品をリクリエーションすると決まってから戯曲を読み直した時に、書いてあるセリフから、当時は言語化できなかったけどこういう風に感じてたのかなって思ったこととかはあって、その一つがトモキくんの態度で。なんか「決めない」っていう責任の取り方をトモキくんはずっと続けてて、それは現代社会のいろんなところで見られることなのかなと感じました。「好きにしていいよ」っていう責任の取り方は色んな人がやってることなんじゃないかと。

 

西尾:本当は責任取ってないんですけどね。本当は無関心。

それで言ったら、泉さんの演出について今後どこまで役者に自由にやらせてみるという責任の取り方をやり続けることが出来るのかってことにすごく興味がありますね。ひょっとするとものすごく知的な戦略がないと、トモキくんと同じ形になってしまう気がするんですよね。要するに、「あなたが決めたらいいですよ」ってことを演出が言い続けるってことは、本当は決めなきゃいけないところもずるずる伸ばしちゃったりして、全体的に演出家が責任を取ってるのか?ってことは、ちょっと危惧したところでした。でも言ってることはめっちゃわかる。自分も20代の時とかは、先人がやってる色んなコンセプトを自分もやってみたいって思ってたし、頭の中では理想の自分の映画チームや役者の演技があるわけですけど、現実はそううまくいかないわけですよね。だんだん自分の中で軌道修正が起きたりするんです。そういう意味で言ったら今日の稽古してる泉さんが面白かったですね。さっきちょっと話しましたけど、中筋さんは割と「ここは決めなきゃいけないんじゃないか」「ここは演劇のポイントなんじゃないか」ってところを、自分がわからなかったらわからないって言うタイプですよね。だから、それがいいコンビなんだろうなと思いました。お互い育ちあってるというか、伸び盛りだなと。

 

<「女性」への抑圧>

西尾:一点気になったことがあるんです。僕も20代の頃、自主製作映画撮ってた頃に、主人公を女性にしてたんですけど、これ結構映画の世界では多くて。30代くらいまでの男性作家が、自分の置かれてる不遇とか世の中に対する違和感とかコンプレックスとかを女子高生とか若い女性に托して、その子たちが周りに追い込まれて不幸になっていくっていうところで話が終わる、っていうパターンのものって結構いくつかあるんですよ。それと比較すると、その中でも丁寧に描かれてるしセリフもリアルで、戯曲書ける人だなって思ったんですけど。惜しいなと思ったのは、いろんな圧力や無関心がある中で、作家はそこに対して、世の中に対しての目線を持っていなきゃいけないじゃないですか。だけど、色んなディティールのリアリズムがあるのを取っ払ってこの作品の構図だけ見てしまうと、ひょっとすると、演出家が若い女性の可能性とか本当は突破する力とかを最初から「女性だから」という一点で結構排除していってるんじゃないかって風に見えたんです。この作品は全員忖度しあっている演劇だったんですよね。もちろんそれは悪い意味ではなく、そういう現代のリアルが描かれていて面白いなと思ったんですけど。でも例えば中筋さんとかは俳優として、最後何かこの状況を突破したいって思ってるんじゃないかっていう風に見えたんですね。ただそれは泉さんからしたら作品のトーンを壊すことになるからNGなのかなと思いました。

 

泉:それはすごく難しいんですよね。だからこそ今このラストでいいのかなってことは悩んでいて。この作品は、今の段階で終わってもある程度の完成度で見せられると思っているけど、ちょっと変えたいっていう話は稽古中にもしてたのはそういう気持ちもあります。今こうして言語化されて、そうなのかなって思うこともあって、今この作品の一番のテーマが実感の喪失だからこそ、今のままではそこで何かを突破してくることを描きにくいんじゃないのかなって風に思いました。だからラストを変更したいのかもしれない。

 

西尾:泉さんの実感の喪失とアカリさんの希望がうまく描けるようなすごいラストが見つかったら、傑作になる気がします。今10日前なのでまだ変わっていくとは思うんですけどね。今でも十分面白いんですよ。今日一番感心したのは、泉さんがすごく書ける人なんだなってことで、今の20代の劇作家とか劇団の中ではずば抜けてると思うんですよ。それは自信持ってもらっていいと思います。

 

泉:ありがとうございます。

 

西尾:ただ、これは映画でもいるんですけど、脚本家タイプと映画監督タイプ、演劇でいうと脚本家タイプと演出家タイプと言えばいいのかな。そういう2パターンの人間がいるんですよね。どういうことかというと、書けるんだけど書いたことにとらわれすぎちゃう。演劇でしか出せない表現とか、演劇にしか出せない瞬間とかに関してまだまだアイディア出せるなって思いました。言葉はてにをはとか主語述語とかっていう文法ですよね。映画にも実は文法があって、言葉とは違って映像と映像をどう並べるかっていう文法があるんですけど、演劇にも空間があって照明があって音があってっていう風に構成されるもの、てにをはとかの文法では伝わらない、演劇ならではの瞬間ていうものがありますよね。それがクライマックスでどう立ちあがってくるのかが、残り本番までの勝負かなと思います。現状それがちょっと弱いと思ったので、僕がどう感じたかと言うと、言葉が饒舌に感じてしまう。言葉が勝ってしまうんですよね。役者のフィジカルとかにもっと置き換えていった方がいい部分はいくつかあって、そこにこの作品がもっと面白くなっていく可能性があると感じました。今言葉にしすぎてる部分をもう少し演劇に変換していったらもっと面白いんじゃないかと思いました。例えばdracomの筒井さんとかは、ものすごく演劇的な瞬間を作り上げることにこだわっていらっしゃるじゃないですか。そういう演劇的な瞬間をもっと作っていったら、もっといいものになるんじゃないかと。でも、この50分弱の演劇の空気とかトーンをコントロールしてるのはすごいと思いました。だから全体でみるとしっかりと演劇作品だと思ったし、すごく強度を持っていると思ったんです。だからあえて言うと、もっとできるんじゃないかと思いました。

泉さんが頭で考えていることは面白いわけですけど、さっき僕が言った女性を主人公にすることに関して、もうちょっと女性を取材してもいいんじゃないかって思いました。

 

泉:そうですね…

 

西尾:男たちがとてもリアル。こういう男いるよなって感じたんです。で、女の子たちがみんな割と抑制されている。90年代に山本直樹っていう漫画家が、萌え的なタッチじゃなくてしっかりしたタッチでエロ漫画を描いてるんですけど、そこで普通の女子高生が男子高生に「わたしオナニーもするけど?」みたいなことを言うんですよ。90年代は男性が思っている女性の役割に対してエロ漫画家の人がそうじゃないよと反対してくるんですね。女の人にも汚いところはある、そういうことを男性読者に読ませてるっていうのがあって。それが2000年代から萌えが台頭していって、もしかすると女性の持ってる自主性とかが消されていって、割と男性が想像する、これ以上は越えてほしくないっていう女性像な気がするんですよね。それはこの作品でも一緒かもしれないと思いました。女の子をあまりにも守りすぎていると思いました。でも自分も20代の頃自主製作映画とか撮って、女の子が不幸になる話とか撮ってたんですよ。それはある意味、男子の憧れだったり恐怖だったりが混じってるものだと思うから、わかるなと思って今日も観てたんですけど、よりこの作品を良くしていくんだったら、もう少し女性を取材していくのがいいかなと思います。自分が思っている世界の外にある異物を取り入れていく作業と言うか。その中でもう一回自分のやりたいことのトーンは精査していく必要があると思うんですけど。

 

<「メッセージ」を込めた作品>

西尾:今って、何かメッセージを言わないと世の中が変わっていくのをただ静観する立場にならないかっていうのがあるんじゃないかと思います。最後に彼女が行動を起こす瞬間があると、観てる方はやっぱり行動につながるんですよね。考えさせるだけで終わるのは20世紀の表現だなって思う。もちろん、それでも素晴らしい作品はこれからも出てくるんですけど、個人的にはそういう、行動につながるような作品を見たいなと思いました。

 

泉:全く同じことを言われ続けてますね。批評性は高いけどその先に何が見えてるのかを見せてほしいってことを最近言われるようになりました。

 

西尾:でもね、20代前半ってそこまで行くだけでもすごいと思いますよ。その先に行くためには、多分ですけど、動かないと変わらないなって経験をしないといけないと思うんです。僕も20代のころは世の中を俯瞰的・批評的に見てそれを描くってことの方が自分にとって作品を作っているという感じがあった。そこにメッセージを込めたりするのはなんかダサいとか思っちゃうんですけど、ちょっとだけ年を取ると、そのダサいことを引き受けていかないと作品の強度が上がらないってことに気付く。それは今の泉さんでいうと取捨選択になると思うんです。今の泉さんは、俳優に選ばせてるじゃないですか。だからこそ、泉さんが選んだものを最後に見せてくれると、骨太な演劇作品だなと思えるんじゃないかと。そういうことに期待したいですね。

 

泉:ありがとうございます。