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​d空の驛舎・中村ケンシさん×泉宗良うさぎの喘ギ・泉宗良

​前作「泣きたいp.m.、泣けないa.m.。」を観ていただき、中筋も2月に出演させていただいた空の驛舎の中村ケンシさん。

​今回は、「気配」をキーワードに対談をさせていただきました。

<マクロではなくミクロでみる>

―率直に。観てどう思われましたか?

中村ケンシさん(以下、中村):ずっと集中して「劇」を感じることができました。前回のイロリムラ(第4回公演「泣きたいp.m.、泣けないa.m.。」)でもそう思ったんですけど、セリフが人の呼吸や息遣いを描いてる気がして。呼吸や息遣いをセリフ化するとああなるし、ああいう演出になるのかって思いました。

 それからキーワードは「気配」。気配がすごく突出して感じられて。もちろんその人がしゃべる声もそうだし、ブルーシートのカサカサ音とか、突然パチパチ音が聞こえたり、ドキッとしました。それって気配なんですよ。一見会話が成立してないように、ディスコミュニケーションっぽく表面上は見えるんですけど、ものすごくコミュニケーションしてるように思います。なぜかというと、役者の身体や耳が、気配に敏感になって、気配ってのは人の存在だと思うんですね。そこに人がいるから、気配があるわけで。それが服の衣摺れの音であったりガサガサした足音であったり、もちろんセリフであったり。それに、すごく敏感になっているから逆に、ちゃんと人を認識して関わろうっていう、関わり方の第1歩目第2歩目って感じがします。全くディスコミュニケーションとは思わないですよね。人間の存在がすごく活きてるなあって。「俺はいるんだ!」って絶叫するんじゃなくて、そこにいて執拗に物に関わりながら、セリフも気配の音と同等に聞こえてくる。コミュニケーションはそれに敏感になるところから始まるんじゃないかと。その表現として奇しくも言葉っていうのはやはり相手がいるから相手に話すという風にしてるのかなって。息遣い呼吸とですね。

 私の中では表現方法は努力クラブが一番近いんじゃないかって。でも違うところは、うさぎの喘ギさんの表現方法は息遣いや呼吸を生物的な呼吸ではなく社会的な感じがする。社会があって、人が一人いて。世界があって、人が相対してて、相対しながらその人は世界の一部であって…っていう感じです。その構造の中で社会的な呼吸音ってのは、泉さんが書いているセリフじゃないかって感じがして。話している内容よりも人がそこに生きてるってことが突出して伝わってくるような。

 また表現方法がテキストとリンクしてる感じもして。街の中に人がいるって感じですね。今日の泉さんのダメ出しで「物を正当なものとして扱わない」っていうのがありましたが、そうだよなって。物の機能じゃなくてその物自体から探っていくっていうところが、いわゆるこの時代のカウンターになってると思うんですよね。抽象的って言いますけど、観念的には見えなかったですね。それはなかなか珍しいんじゃないか。

 セリフの選び方が秀逸であるのは確かです。演技もですが…ちょっと伝わるかわかんないんですけど、アフォーダンスっていう考え方があるんですね。カブトムシをひっくり返したらバタバタしますやんか。それでたまたま壁があったから引っかかって元に戻れた。それってマクロには目的がないんですけど、ミクロにはありますよね。アフォーダンスは環境に実在する動物(有機体)がその生活する環境を探索することによって獲得することができる意味/価値と定義されています。ミクロの探索といいますかね。現代はそのような具体的な感覚・肌触りが失われて観念にいってしまっている気がするので、そのカウンター演劇としては非常に面白いかなって思うんですね。

泉宗良(以下、泉):自分で意識はしてなかったんですけど、ずっと持ってるテーマとして、実感的なことが失われてしまってるんじゃないかっていうことは、ある種さっきの、カブトムシが起き上がるみたいなことって割とその、だからミクロの感覚ばかりを捨てて、マクロとしてどうであるかってことばっかりを人間が追求してるんじゃないかってことは、今僕が思ってる実感がないっていうこととつながってきてるのかなって。

中村:リアリティですよね。具体的な感覚・肌触りを感受して、構造はお客さんが頭で組み立てるっていう風なところが演劇としては豊かな演劇だと思います。実感がないっていう感覚って結構普遍的に演劇人は持ってて。

 私も空の驛舎の公演パンフレットに10年前、「演劇を作るっていうのは無声映画にアフレコしてるような感覚でしかない」ってことを書いたことがあって。それ以後自分の方法論としては「引き裂かれた身体」と「矛盾」というテーマをやってきてはいるんだけど。

 前回の作品は時間がループしたじゃない。前回は時間で、今回は空間ですよね。空間性を感じました。「場所」ってことを感じたんですけど、そこで前回の作品で面白かったのはループ感がグルーヴ感になって、それが一人の人間ではなく種としての人間の何か、いや普遍的人間の喘ぎみたいなところを感じたんですけど。だから通し稽古を観てて、いつグルーヴするのかなって期待してて。2がいつ3になるのかなとか、例えばユニゾンになってたり、人の思念が、グルーヴ感が出ると表現的にわかりやすい。「わかりやすい」っていうのはお客さんに近付くのではなくてお客さんを挑発できるような気がして。ラストのシーンの生活音はやっぱり「人がいる」って思いましたね。人がいるってよいなあって思って、「チケット1500円安い」と思った(笑)。

<「気配」の演劇>

中村:うさぎの喘ギの作品の魅力をどう言うかっていうと、「気配の演劇」だと言えるかも。気配っていうのは消極的な意味じゃなくて、気配・息遣い、それも生物学的な息じゃなくて社会に生きる呼吸ってのをまずは大事にする。そこから立ち上げていくっていう言い方になると面白いかなと。それは唯一無二の表現だと思いますよ。他のカンパニーではあまりないのでは。

泉:すごくそれは僕の中で循環してる、考え続けているというか…逆説的になっていくっていう。「実感がない」っていう実感はあるっていうのはずっとどこかにあるのかなって。だから、人間がいないように扱い続けることで、残った人間性みたいなものがちゃんと出てくるんじゃないのかってことを作業としてやってるのかなってことは、最近自分で演劇を作りながら思ってて。だからそれはある種「気配」っていうワードとつながってきてるのかもしれないなって思いました。

中村:人は呼吸してるもんね。それは社会とつながろうとしてるっていうか、自分のことをわかるためには一人じゃわかんないもんね。関わらないと。喋ってみてリアクションもらって、誰かがいるって考えることでしか自分の存在は浮き上がらへん。「存在している」っていう表現は強いと思います。

 だから、テキストも演出方法もそこに向かってはるんかしらね、とか思って。それは魅力だと思います。

泉:なんか今までは「実感の喪失」っていうことだけをテーマとして、第3回(ウイングカップ8参加作品「うさり」)、第4回と作ったんですけど、今回の作品は「何が実感を失わせてるのかな」ってことを考えて、それを描きたい。それがある種「社会の中での気配」なのかなって。捨てざるを得なかった実感に対する後悔の念みたいなことがあって。割り切って生きてることだけど、それは叫びなのかなって。叫びにも聞こえてほしいってことは思ってて。

中村:多分「今の社会はこうなんだ」っていうところで終わってないからね。次を示しているからいいんじゃないかなって思うんです。答えを出す前の拘りって大事だもんね。それは社会に充分相対してると思う。それは得てしてディスコミュニケーションっぽく見えるけど、そんな感じは全然しない。非常にポジティブな作品だと思う。

泉:作ってるうちに気付いたことなんですけど、大事にしたいことは会話していないように表面上は見えるけど実はめっちゃ会話してるっていうことが僕らの、でもお客さんもそういうことを感じてるから僕らの演劇に心を動かしてもらえることがあるのかなって最近思ってて、だからそれは大事にしないといけないなっていう。

中村:聞こうとするもんね。俳優陣もよく聞いてる。そこまで気配に拘ると、お客さんも耳を澄ますのでね。耳を澄ますという演出的なアトラクトの取り方、引き込み方もそうだし、テキストとテーマ性も一致してるから、いい手法かしらね、とか思うよね。でももうちょっとちゃんと言ってくれってお客さんはいるよ。

泉:それはまあ、いつもいますね。

中村:でも、大事なことをやってる気はしますよ。

<実感を忘れて生きる方が楽だということ>

―「耳を澄ましている」俳優がいる一方、「耳を澄ます」という演出はされてないが?

泉:それは言わないようにしてる。僕のテーマとして実感がないっていうものをやっていったときに、携帯を触りながら話してる感覚って、あんまりコミュニケーションしてないなって思われるかもしれないけど、実はすごいお互いに相手の気持とかを読みあってる瞬間もあるんじゃないのかな、って状況を再現したいから、小道具をもって、携帯を触ってるようにやってくれって言ってて、それって実感を忘れたことで生きやすくなってる僕たちの、でも捨てきれてないところっていうのが叫びになるのかなってことは思ってて。やっぱ、実感を忘れた方が生きやすいっていうのが今の社会っていうのは僕の中であって。

中村:でもいつかそれはツケが来るからね。いつか暴発しちゃうから。

泉:そうなんですよね。なんか戦争とかでも、実感を失っていった先に簡単に核のをボタンを押せる人間が出てくるってことなのかな、とかは考えますし。

中村:身もふたもないことを言うけど、コミュニケーションってのは、基本的になかなか伝わらへんですやん。演劇やってても、戯曲書いてても、この戯曲が1しか伝わらへん、それが3伝わったらええ芝居で4伝わったらやっと戯曲賞を獲る感じのイメージはあるのね。だから、他者とは同じ景色を見ることはできないっていうのを知ってながら、それでも諦めきれないっていう方法は、携帯を触りながらしか伝えられない。面と向かって言っても伝わらないですよね。だまし合うことはあっても。もっと違う本質と言うか、喋るってことは言葉だけじゃなくて身体が鳴っていることだから。その身体の鳴りとかも呼吸なんですけど。そこをちゃんと表現しつつ丁寧にやってるっていうのは間違いない気がしますね。

泉:でもそれは本当にやりたいことですね。すごい難しい。

中村:難しいと思いますね。

泉:本当に人に何か伝えるってことが、すごく最近はどんどん自分の中では難しくなってきてて。

泉:最初はシステムを批判するんだって気持ちで書いてたんですけど、でももうそれって生活の一部になってて、それをやめることはもう人間はできない。その時に仕方がないなってことを、仕方がないって風になってるってことは知っておかなきゃいけない、じゃないと危険なことになるってことはすごく感じていて。

中村:この社会が悪いっていうのは結構簡単だもんね。社会は自分も含めて社会だもんね。自分を含めてっていうところは大事だと思うし、システムに取り込まれてるって今おっしゃいましたが、取り込まれてないようにも見える。なんでかっていうと、ちゃんと生活してる。ここに生きてる。それが、セリフもそうだけど、観念的になってない。ちゃんと切れば血の出る作品になってる気がします。

泉:それは目指してたもので。システムを批判したいけど、でも生活の延長線上にシステムはあるっていう現状をどう生きていくかってことが、この作品の、ニュータウンっていう、生活だけどめちゃくちゃシステムな生活ってところかなと。

中村:風景一緒だもんね。同じようなチェーン店があって、みたいな。

泉:でも、生活だっていうことを、どう受け止めていくのか。そういうことを問うようなものになればと思って作っていってるんで、そういう風に受け取っていただいたのはすごくうれしい。

中村:前回よりも劇作に仕掛けがあるもんね。ニュータウンを選ぶことによってそこで生きている、若者の喘ぎが、ポジティブに聞こえる。

泉:あと一歩突き抜けなきゃいけないって感覚は、最初の通し稽古からあって。でもそれが、2が3になる瞬間がないってことは、僕にとって「あ、そういうことだったんだ」って思ったので、あと二週間で頑張りたいですね。

中村:本番を楽しみにしています。