​うさぎの喘ギ×ツレヅレ 交流企画

『演出座談会〜今、作品を上演する意味について〜』

同じ稽古場を利用し公演期間の重なっているうさぎの喘ギとツレヅレ。両団体の交流とお互いの公演の周知を目的としたのが本企画の趣旨である。
今回は、うさぎの喘ギ第七回公演『いみいみ』の作・演出を務める泉宗良とツレヅレ第二回『ハムレットマシーン』の演出・森本綾乃とプロデューサーのキャメロン瀬藤謙友の3人で「今、作品を上演する意味について」そしてお互いの作品について座談会を行なった。

参加者
 うさぎの喘ギ
  泉宗良(作家・演出家)
 ツレヅレ
  森本綾乃(演出)
  キャメロン瀬藤謙友(プロデューサー)

※以下、うさぎの喘ギ関係者は(U)、ツレヅレ関係者は(T)を名前の後に表記しています

【「ツレヅレ」とは?】

2019年、神戸大学大学演劇研究会はちの巣座 OB キャメロン瀬藤謙友が立ち上げ。立ち上げ当初より固定のメンバーを持たず、一からプロデュースを行う団体として活動。今回はハイナーミュラーの代表作『ハムレットマシーン』に同世代と共に挑戦する。

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今作品を上演することについて

泉(U):『いみいみ』に関していうと、コロナが流行する前からこのテーマで作品を創りたいとは思っていて、2019年の12月くらいから稽古を始めてたんですが、3月に緊急事態宣言が出て延期を決定したという形になります。
だから、コロナとは関係なく、今この作品上演する意義を感じて作品を創っているのですが、延期した1年の中で、右と左の分断などが苛烈になっているというのは感じていました。今回扱っているテーマは「記号」なんですけど、その意味ではこの1年で前景化してきた差別や偏見、苛烈になった分断を意識せざるを得ないですよね。ある記号を差別と感じるかどうかは、その人の意味を読み込む態度によって変わってきてしまうというようなことを感じていて、それを考えていく中で、上演ができるような状況になったらすぐにやりたい、とは思っていました。僕は9月に豊岡演劇祭に行ったんですけど、その頃から感染症対策をとりながら演劇公演ができるんだというビジョンが具体化してきて、再始動しようと皆さんに再度オファーさせていただきました。そういう風に「すぐにでもやりたい」と思わされるくらい、2020年は分断が進んだ1年だったなと思います。逆に、どうして今『ハムレット・マシーン』をやろうと思ったのかな、というのは気になります。

森本(T):演出やってみないか、というお話をキャメロンからいただいたのが、2020年の5月末くらいでした。その時は、作品は自由に選んでいいとのことで、元々やってみたいなと思っていた『ハムレット・マシーン』をやろうと。最初に『ハムレット・マシーン』に触れたのは、2019年10月に地点が上演した時ですね。私は大学で演劇学を専攻していて、その授業の一環で観に行くことになったんですけど、授業の一環なので観る前に元のテキストをみんなで読んだり、作者であるハイナー・ミュラーの背景や、作品の成立背景である東西ドイツの分断などの事前知識を入れた状態で観に行ったんです。そうしたら、想定していたものとは90°くらい違うものが舞台上に広がっていて。終演後、演劇学のみんなで「何だったんだあれは?」って話したんですけど、私がその時に思ったのは、「テキストに一切縛られない上演は可能である」ってことだったんです。地点の『ハムレット・マシーン』を観た後、ロバート・ウィルソンなどの他の演出家による上演も色々観たんですけど、演出家によって全然違っていて。演出家ごとのバリエーションの豊かさが、その時の私にはすごく魅力的に見えて、じゃあ、私が演出したらどんなものが出来上がるんだろう?というワクワクがあって、いつかやってみたいなと思っていたところで、キャメロンが声をかけてくれた、という感じでした。なので、このテキストをやりたいと思ったのも、コロナなんて無かった頃だったので、上演を社会と繋げる、というような強い意志は私の中にはあんまりないんです。
泉(U):その「自分がやったらどうなるか」っていう動機でやってみて、実際その答えみたいなものって見つかってますか?
森本(T):この『ハムレット・マシーン』の前に、自分で作・演出・出演をやったんです。内容としては、能の『通小町』をもとに創ったもので、男女がお互いに思い合っているんだけどそのベクトルが全然違って、結果的に誰も幸せにならない、報われない、みたいな話なんですけど…。私の一人芝居なので、舞台上にいるのは、女。で、それ以外の周りの物が男性である、という風な上演をやってみました。それが終わって、次どうするかって考えた時に、短絡的なんですけど、逆のことをやってみたいなと思って。だから今回は、舞台上にいる人間は全員男性で、空間――舞台美術、音響、照明全部に、女性としての「オフィーリア」を託そうという実験をやっています。二項対立にあるものをの一方を舞台上に上げずに、消失させることで、観客に想像させる。見えないからこそ見えてくるものがある、見えないからこそちゃんと見ようとする、ということが起きるのではないかという可能性を、前回の一人芝居と今回の『ハムレット・マシーン』で見出しつつあると思います。裏を返せば、見えているからこそ無視してしまうような暴力性もありますよね、そういうことを表現したいなと思って今は創作しています。

キャメロン(T):『ハムレット・マシーン』という作品自体が、上演するにあたって結構気合が入る作品というか…演劇をやってる人にとって「ああ、あの作品やるんだ」ってなる作品っていくつかあると思うんです。『ハムレット・マシーン』もそういう作品の一つだと思っていて、その中でも上演するにあたっての創作が難しい作品だとは思います。
 今回僕は、プロデューサーという立場なんですけど、なるべく同世代の子と挑戦したいと思っていて、俳優もスタッフも僕と同い年か少し下か、くらいなんです。まあ、ある意味無茶な挑戦かもしれないんですけど、そういうことに挑戦してみたいなと思っている一方で、さっき社会と繋げる、みたいな話があったと思うんですけど、僕は今の社会情勢を見ていると、このコロナ禍で様々な分断や立場の違いなんかが明らかになっていってるな、ということは感じていて、さっき泉さんが仰っていたテーマと被るところもあるんですけど。そういう中で、例えば男と女、みたいな分断をどうにかして舞台に上げることでお客さん自身に考えてもらえないかな、あるいは僕個人としても捉え直すきっかけにならないかな、ということは思っています。東西冷戦って、僕ら世代にとってはもう終わった話というか、僕らが生まれた頃にはもうソ連も崩壊しちゃってるんで、東西冷戦という分断の時代を経験していない。でも、今も確実に何かしらの分断は起きていて、それが僕らにとっては初めての分断の経験なわけじゃないですか。なので、過去の分断されていた時代、東西冷戦期のドイツに生きていたハイナー・ミュラーの戯曲を持ってくることで、それを再確認できないかな、という風には思っています。

分断と個別的なことに関して
森本(T):この作品は、分断を描いた作品だと思っているんですけど、それが書かれた背景は遠い昔のことで、そういう距離のある戯曲を舞台に上げるにあたって私が演出として考えたことは、パーソナルな部分に一度落とし込んでみようということでした。そういう作業を一回経て、私の中で一番身近な分断とは何だろうと考えた時に、恋愛的な男女の分断ではないか、と結論が出たので、今回の作品にもそれが反映されています。

泉(U):僕とは割と逆方向ですね。僕は個別的な問題に向かっていくことはしてないつもりなんです。誤解を恐れずに言うと、僕自身が男性とかそういう属性を持った所謂「強者」だという自覚はあって、一度女性の物語を書いたときに、女性の劇作家さんにそういう指摘をいただいたこともありますし、僕が男性として生まれたことで書けない物語とか、書くにあたってものすごく気を使う物語とかがある。そういうことを考えた時に、個別的な問題を、差別される側の立場から書くというのは、変な言い方ですけど、僕の仕事ではないなと思いました。僕自身が差別する側としてある種の偏見を持って見られてきたという経験もありますし、僕が気づいていないだけで権力構造的に僕が得をしている瞬間なんていくらでもあるんだろうなと思います。思いながらも、そういうことに気付かないまま搾取しているのではなく、気付いた上で悩んでいる、というような物語を書きたいということを考えていて。記号の持つ自分ではコントロールできないような差別性、例えばその言葉を言う人が男性であるから差別だ、みたいなことが現実にあるじゃないですか。記号ってそもそも、人がどう解釈するかによって意味が決定されているものだから、そういう元々の役割みたいなものを、もう少し俯瞰してみたいなという風に思って創っています。昨今の政治的正しさ、ポリティカルコレクトネスは、語弊があるかもしれないんですけど、ちょっと行き過ぎててるんじゃないかなと思っていて。もちろんそれは大事なことでもあるんですけど、ポリコレっていうものを根っこから考えていったら、僕的には記号の問題になるんじゃないかなと。そこに立ち返ることができるような作品を創りたいという風には思ったし、僕がやるんだったら、マイノリティのことを想像して書くよりは、マイノリティとマジョリティが日常生活で使う言葉について、どういう言葉遣い・どういう言葉を選択した時にどういう権力関係が発生してしまっているのかに目を向けられるものを創った方が、実は誠実なんじゃないかと思って、この作品を作っているという面もあります。
この上演って、何の意味も無いんですよね。何の意味も無いことをずっと喋ってるだけなのに、観客は何か意味を見出そうとする。その時に、じゃあどうやって意味を見出そうとするかって言うと、勝手にその言葉の意味を想像して決めていくことでしか、この作品を見ることはできない。そうなった時に、記号にまつわる差別って、もちろん構造関係の中で言葉の意味が決まっているという場合もあると思うんですけど、そうじゃなくてその言葉を目撃した人が勝手に「それは差別だ」って考えてしまう瞬間もあるんじゃないかなってことまで考えられるようなものになればいいな、と思ってこういう何の意味も無いテキストで物語を紡いでいったときに、観客の中でどういう作用があるのかなっていうのは興味あるし、このテキストを俳優が発話するっていうのも、僕は結構面白いと思っています。このテキストを演出家として演出するのも楽しいし、この文法でまた別の短編をやってみたいなって思うくらいには、このテキストの持つ独自性みたいなものを掘り下げて、現代に対する批評性をより見出していきたいという風には感じています。

観客の位相

キャメロン(T):さっき観客の話が出ましたけど、今回僕らはコロナ禍っていうこともあって、客席と舞台をビニールカーテンで隔てよう、ってことになってるんです。その中で観客という立場については、どう思う?

森本(T):ビニールカーテンで仕切るっていうのは最初からわかってたことなので、これは何かしらで生かさないともったいないなと思って、それで仕切られている向こう側にいる観客たちにも、意味を付与しよう、という話になったんです。俳優たち・ハムレットたちと、「オフィーリア」、それから観客という三者を並べたときに、ハムレットが一番下の次元にいて、その上に「オフィーリア」がいる。その更に上に観客がいる、ってことにしたらどうだろうと思いました。そういう構造に観客を当てはめると、ハムレットたちや「オフィーリア」の姿をまるで映画を見るように淡々と見ている、神のような存在にしようと思いました。今回の上演の中で、観客はそれを受容する存在というよりかは、目撃する存在というニュアンスに近い。例えば音響のスピーカーを客席側に置くのではなく舞台側に置く、みたいな試みをしようと思ってるんですけど、果たしてそれが上手くいくのかは劇場入ってみないとわかんないんですけどね。
泉(U):そういう、次元というか、階層があるってこともある種の分断なのかなと思いました。男と女の対立・分断を次元の差として舞台に上げた時、その外部の存在を含めると二項対立ではない場所に行くのかなというのは興味深いですね。
森本(T):没になった案なんですけど、客席側に置いているスピーカーから何かを流そうか、っていう話があったんです。でもそうしてしまうと、ビニールカーテンを隔てた向こう側にある二項対立に、第三勢力が参入することになってしまうじゃないですか。そうなると三つ巴のような関係性になるというか、当初の目的とはズレるなと思って、そのアイディアは下げちゃったんです。
キャメロン(T):実際、客席だとか観客だとかに意味を付与するってなると、お客さんに劇場に来てもらわないとわからないじゃないですか。だから、彼女の目論見が達成されたかは、劇場に観客が入って初めてわかるっていう側面もあります。『いみいみ』も対面客席ですよね。そうなるとお客さん同士の顔も見えるし、お客さんがいないと成立しない演出、という意味では共通してるかもしれませんね。

泉(U):この作品は「まなざし」をモチーフにしていて、対面客席だとその「まなざし」を意識的にならざるを得ないのかなって思います。もちろん、お客さんが入ってみないとわからないというのはその通りなんですけど、面白いことになればいいなと。
 男女の対立を題材として扱いたいと思っている人にとって、この作品ってどう見えてるんでしょうか?
森本(T):私が男女の問題を扱いたいと思っているのは、自分の内面を揺さぶるような出来事が男女に関することだから、っていうのがまずあって。それでさっきの通し稽古を見させていただいた時に、これを観続けていたら私は傷ついてしまうかもしれないって思ったんです。だから、あんまり良くないと思うんですけど、あえてセリフを耳に入れないようにしていた場面もありました。
泉(U):そういうのもあっていいと思います。
森本(T):特に生理とか妊娠の話が、私の身の回りで最近あった出来事とかと結びついてしまって、ちょっと辛くなってしまって一瞬耳を塞いだりもしたんですけど、そういう外との繋がりやすさがすごくあるから、100人いたら100通りの引っかかり方があるだろうなと思いました。だからこれが上演されるのもすごく楽しみだし、これを観た他の人の感想もすごく気になるなと思いました。
泉(U):ありがとうございます。”A=A”っていう文章はそれだけで完結してしまっているので、観客は自分の中で引っ掛かりを見つけていくしかないというような構造になっているからこそ、自分の経験と照らし合わせて見ざるを得ないというか。もちろん、他の作品も大抵は自分の経験と照らし合わせて観ることだってあると思うんですけど、そこを狙って行けたらなと思ってるので、そういう感想は嬉しいです。
さっきの話聞いてて、男女の分断に興味があるっていう話だったんですけど、じゃあその他の分断の位置付けがどうなっていくのかなってことは気になりました。次元の話を聞いている時に、チェルフィッチュの『消しゴム山』のことを思い出しました。あれは、物にも時間があるのに、人間は時間が人間だけのものだと思っている、っていうことを批判したいのかなと僕は解釈していて、『ハムレット・マシーン』に話を戻すと、男女って人間の中での対立じゃないですか。じゃあ、人間とそれ以外の対立はどうなってるのかなってことを考えた時に、そこをおざなりにするのではなく、空間っていう人間の外の部分に、オフィーリアという人間を重ねることで、そこをうまく描き出すことができたら面白いのかなと思いつつ、本番観るのを楽しみにしてます。
森本(T):ありがとうございます。

(終)