したため・和田ながらさん×うさぎの喘ギ・泉宗良

第7回公演『いみいみ』の小屋稽古にしたための和田ながらさんをお招きして、通し稽古を見ていただいた後にお話を伺いました。

泉:まだテキスト自体は完全には上がってないんですけど、率直な感想をお伺いしたいです。
和田ながらさん(以下、和田):通して45分くらい、集中して観れたなと思います。セリフが同語反復するルールも、「ずっとこれが続くのか〜」と一回心配したんですけど、実際はあまり飽きずに観ることができました。俳優さんがどういう風にこのセリフを扱っているのか興味があります。一方で、基本的には全編にわたって非常に真面目にルールが守られているので、どこかでもう一手二手、ルールから外れるか、ルールには則りながらも少し違う質感に飛んでみてほしい、といった期待も抱きました。まだ本番まで二週間ありますし、テキストも演技も、実験できる余地があるように思いました。
泉:今はどういう質感として受け取られてるのでしょうか?
和田:基本的にはモノローグ・断片を一人ずつが順番に喋っていて、エピソードは重なってるようだけど基本は一人の時間として進行していく、という印象でしょうか。人物みんなが同じ時空間にいる、という場面は必要ないだろうと思うんですけど、たとえば発語が被ってもいいんじゃないかな、と想像したり。この作品にとっては、断片であること・個人個人であることが重要だと思いますが、それを更に際立たせるために、別の見せ方もできそうだなと思いました。
あとはセリフの長さでしょうか。割と一定のリズムで、単語レベルの短いセリフが基調になっていて、時々「“A=B”は“A=B”」という風に外したりもするけれど、観ている側の想定を裏切らないというか。それはそれで心地よいのですが、「えっ、こんなに長いセリフを反復するの?」と心配するようなシーンがあったらドキドキするかも。ただそのリズムは執筆の時点で気にしながら設計されてると思うので、試してみてもやっぱりこの形に落ち着くという気もするのですが…セリフのリズム・長さ、あとは語りの緩急で観客が「おっ」と思わされるやり方はまだ開発できそうかな、と思いました。
泉:前半はどちらかというとリズム重視で反復させてるという意識があるのですが、後半にかけてのセリフではもう少し可能性を探っていきたいです。

《同語反復について》

和田:ちなみに、この同語反復でセリフを書こう、というのはこの作品を作ると決めた時からあったプランなんですか?
泉:どうだったかな…この作品は、2020年の6月に上演を予定して、2019年の冬から稽古を始めていました。稽古が始まって、俳優さんにお渡ししたテキストはもうこの形だったのですが、こういうテーマの作品を創ると決めた時点では、まだこの文体ではなかったと思います。この同語反復を利用してどういう作品が創れるかな、という視点ではなく、こういうテーマに合うテキストの書き方として、同語反復を見つけてきた、という順序ですね。
和田:じゃあ、俳優さんにはこの文法で書いたテキストを渡したときに、どういう風に言ってほしい、どういう解釈をしてほしい、など泉さんからのリクエストはあったんですか?
泉:稽古の序盤は結構苦しみの時間が長くて…まあ、今も苦しんでるんですけど、この文体を一番面白く・自分のやりたいニュアンスが出せる言い方はどれなのかな、というのは常に探りながら創ってきたのですが、最終的に出た一つの答えとしては、“A=A“っていうのは、俳優が言う時には、同じAを言うとしても前後には時間の経過があるので、それが字面で見るテキストではなくて俳優が言うことの面白さに関わっていることだから、そこの間をどうしていくか、ということを意識してやっていただくと、これが演劇であって、人が言う意味があるのかなという風には思っています。そういうことを俳優さんにはお伝えして、やってもらってます。
和田:よくわかります。多分、テキストだけを読んでたら反復部分まで真面目に読まない(笑)。“A=A”っていうセリフの最初の“A=”を言う時、俳優自身も自分の声を聞いていて、さらに“A”をもう一回言う、という構造が、テキストの見た目としてはシンプルなようでいて、発語するというレベルでは、俳優の中でループやフィードバックといった複雑なことが起こっているんじゃないかなと。それが面白いというのは観ていても感じていた気がします。だからもし“A”の部分がすごく長い場面があったら、という想像は、俳優の中の作用としてどういうことが起こるんだろう、聞いている側としてどう感じるんだろう、という興味がもとになっています。
泉:今あるテキストの中で、先ほども少し話題に上がりましたが「Aは A、BはB、“A=B”は“A=B”」という今までのルールからは少し外れたセリフがあるのですが、それが多分今おっしゃってくださったことの最小単位なのかなと思うので、それがより長くなることがどういう風になるのか、お話しさせていただく中でなんとなくイメージができてきました。
和田:ルールがシンプルなので、「どこかでルールを崩すはずだ…!」と自然と期待していて。『ラ・ジュテ』っていう映画知ってますか?
泉:いや、知らないです。
和田:モノクロ写真とナレーションのみで構成された映画なんですが、一瞬だけ「あれ?」って思わされる仕掛けがあるんです。途中からは『ラ・ジュテ』の“あの”シーンみたいな、そういう一瞬を見つけよう!というモードで観てました。
モノローグだけの構成は、それはそれで利点があると思うんですけど、モノローグを語っているその俳優担当の時間、っていうのがわかりやすくなり過ぎる気がしました。もちろん観客は喋っている人だけを観ているわけではないですけど、とはいえ「今はこの人に注目する時間なんだな」と単純な認識になってしまう。折角4人俳優がいるのに、勿体無いなという気持ちになりました。私は演出家で劇作家ではなく、テキストを書かないので、方法のことばかり考えてしまうんですね。テキストの中身というよりは方法のことが気になっちゃう。

《意味からの逃避》

和田:あともう一つ気になっていたのは、あるシーンのテキストの内容が国籍や人種というカテゴリーに寄っていたのは、どういう意図があるんでしょうか。
泉:僕は大阪に住んでるんですけど、大阪でよく見るああいう状況が、国籍や人種に関することが多いから、という体験が元になっているからだと思います。何を言うか、というのがこの作品においてとても難しい選択だと思っていて、“A=A”というのは、何一つ意味がない言葉じゃないですか。そうなると、お客さんはこの作品をどう観るか、というのを考えた時に、おそらく「なぜそれを言うのか」っていうことを手がかりに観ていくのではないかと考えました。どういう単語を選択するのか/しないのかという線引きには、僕の作家としての体験や、自分自身のエゴもあるし、あるいはお客さんが勝手に解釈してるだけのものでもあるという関係性があって。そこが僕にとっては興味深いことだと思ってます。“A=A”という同語反復することで、何の意味もないことを喋ってる。そのことで逃れられるはずなのに、逃れられないというか…伝わってますかね…
和田:何から逃れるんですか?
泉:意味からです。(同語反復によって)意味から逃れられると思って、役はそういう喋り方を選択している、という解釈もできるのかなという風に思っています。でも、究極的には“A=A”と言っている、ということを手がかりに意味を読み込んでいくわけですよね。「意味のない言葉を喋ろう」とか「言葉の意味をなくしていこう」っていう風に考えて喋る側と、なんとかして意味を見出そうとする側の追いかけっこみたいな感じになってたりするところも、面白いのかなと思ってます。
和田:一回だけ“A“って言うだけだったら、発語と意味がめちゃくちゃ密着して、「なるほど、Aか」と聞くことになるけれど、今回の作品のように”A=A“って言われると、「なんでこの人2回言ったのかな?」ってなるし、Aそのものもどうやって捉えたらいいかわからなくなるし、言葉そのものの意味が浮いて隙間が生まれる感じがありますね。とはいえ観客はAの意味を考えてしまう…と。でも、。泉さんの狙いどころはわかるんですけど、私はあんまりピンと来てないかもしれないですね。文字情報としては反復によって無意味化されることが、俳優の発語行為になると、時間も経過するし、テキストの単純なコピペにはならず、言葉の意味とは別のものが隙間に発生している。それを結構楽しんで観ていたので、泉さんがおっしゃるような「無意味」という風には捉えていなかったです。
泉:そういうズレが面白いところだと思ってます。テキスト自体は無意味なはずの言葉に、意味が生まれてくるということの逃れられなさみたいなことが。例えばある役は、自分の体から勝手に意味が生まれたり、勝手に自分の体に意味づけされたりということから逃れたいけれど、逃れられない、みたいなことを扱いたくってこのテキストを選択しているので、もう少し同語反復には意味がない、ということを冒頭で掴めたらよりそういう見方に近づけるのかな、と感想をお聞きして思いました。
和田:セリフからストーリーを読み取りたい、という観客の欲望がありますよね。そう考えると、この作品の序盤のセリフって、同語反復というルールは独特だけれども、キャラクターの説明として充分機能していて、物語としてオーソドックスに観れてしまう情景の描写も過不足ない。そういった序盤のセリフにおける情報の出し方が、観る側のチューニングに影響してるのではないでしょうか。俳優の登場直後にあった即物的なセリフの時間が、もう少し長くても良かったのかなと思いましたね。俳優が現実に立っているここ(green&garden)という場所と登場人物が存在しているフィクションの空間のふたつのレイヤーがあるとすると、ここを意識する時間が短い。ここへの意識が足されて、空間の二重性が強くなると面白いんじゃないかと思いました。

《ステレオタイプ》

泉:テキストの内容的に気になったことってありますか?
和田:同語反復によって意味から離脱するということとも関係があるから、必然的にそうなのかな、とも思いつつ、出てくるエピソードにステレオタイプな内容が多いなと。わざとなんですか?
泉:一部は自分の実体験でもあります。ただ、それ以外のエピソードは基本的には意識してそういう話題を選んでいるつもりです。
和田:ステレオタイプがこの作品にとって必要な気もするんです。登場人物はとりわけ特異なバックグラウンドのキャラクターというわけでもなく、どこにでもいそうな人物ということで配置されているんだろうから、ある種のステレオタイプが有効に機能する。それが作家の作戦としてどれくらい自覚的なのかな、というのが気になりました。
泉:難しい話なんですけど…ステレオタイプを裏切るようなテキストにももちろん価値があると思います。でもこの作品は、意味がないのにステレオタイプに読み取れる、というようなテキストが提示されると、ステレオタイプがあるからこそそういう意味を読み取るのだ、ということを明らかにするような関係性を、観客と言葉が結んでいく。そういう問題意識があってあえてこういう話題を選択しています。逆にそういうステレオタイプに抗おうとして同語反復を使っているセリフもあります。意味のない中で抗うような言い方などを探していくように創っています。
和田:そのシーンはとてもうまくいっていたと思います。
泉:ありがとうございます。この作品におけるステレオタイプとは何か、という問いを持たせながらも、そこを裏切れるようなシーンを形にできるように、残り2週間で調整していきたいなという風に思います。
 

和田ながらさん
2011年2月に自身のユニット「したため」を立ち上げ、京都を拠点に演出家として活動を始める。美術家や写真家など異なる領域のアーティストとも共同作業を行う。2015年、創作コンペティション「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう」vol.5最優秀作品賞受賞。2018年、こまばアゴラ演出家コンクール観客賞受賞。2018年より多角的アートスペース・UrBANGUILDのブッキングスタッフ。2019年より地図にまつわるリサーチプロジェクト「わたしたちのフリーハンドなアトラス」始動。2020年より鳥公園アソシエイトアーティスト。NPO法人京都舞台芸術協会理事長。