© 2017 by usaginoaegi. Proudly created with Wix.com

橋本匡市さん×うさぎの喘ギ・泉宗良

劇作家・演出家である万博設計の橋本匡市さんにお話をうかがいました。

<リアリティについて>
ー早速ですが、率直に通し稽古を観ていただいた感想をお聞かせください。

橋本匡市さん(以下、橋本):初演の「うさり」、それから前回の「まちがいない。」も見ていて、共通して「非現実感」みたいもの、リアリティのなさっていうものを演劇で上演することで、新たなリアリティを獲得しようとしているんだなと、改めて。面白い試みをされていると思います。

泉:ありがとうございます。

橋本:一ヶ月前に仙台に行く機会があり、津波の被害を大きく受けた荒浜地区に立ち寄る機会がありました。今までも震災のニュースを見たり、実際に被害を受けられた方の話をお聞きした事もあるんですけど、現地に行ったことはなかった。9年経って初めて仙台に立って、仙台で活動されている演劇人の方に「見てほしいところがあります」とおっしゃっていただいたのが荒浜地区。仙台の中心部は完全に復興しているように見えるんですけど、海に向かって行くに従い、だんだんと街が簡素になって、徐々に新しい家が増えて、だんだんそれも無くなって。津波を弱めるための新しい堤が作られている最中で、その先は更地で、その向こうに太平洋。仙台は他の地域に比べて復興が進んでいるようで、他の東北の人からすると「仙台は一人勝ちだ」みたいに言われる事もあるみたいなんですけど、でも、当たり前と言えば当たり前なんですけど、海辺の方はまだ更新されていない更地があって。やっぱりその場所に行ってみることで新たに見えてくるものを、自分の経験として…9年経っても、その場所に行くっていうことのリアリティっていうのは大事なんだな、と。
そういうことを思いつつ、この作品を改めて観た時に、リアリティを持てない若者たちが、妊娠という自分や彼女の身体にすごく負荷がかかる経験をすることで、徐々にリアリティを獲得していったかと思いきや、離れていったりして、「何故こんなにもこの人たちにはリアリティが感じられないんだろう?」って。でも、「リアリティなんて獲得しようがないじゃないか」と思えてしまう世界に曝されて生きているから、何に対してもリアリティを獲得できないまま生きている。そういう状態が、ある意味「リアル」なのかなと。
そう考えると、逆に、泉さんにとって、本気で怒るとか、リアリティのある体験・心がある動く瞬間はあるんだろうかと思いました。

泉:うーん…本気で怒るとかは経験ないですね。やっぱり実感の喪失っていう物をテーマに掲げてるのは、自分自身がすごい実感がない人生を歩んでいるからというのはあると思います。

橋本:他人を見て、この人は実感持って生きてるな、みたいに思える人っていますか?例えば、タピオカミルクティーを飲んでる人たちを見て、生きてる感じがするのか、それとも死んでる感じがするのか、とか。この作品には出て来てないんですけど、通し稽古を見ながら何故か、タピオカミルクティーのことを思い出してたんですよね。若者たちが街中で長い行列に並んで、それを「かわいい」「おいしい」「インスタ映え」とか言って飲んでいる。(タピオカミルクティーには)いろんな要素が含まれていると思うんですけど、「いや、タピオカをよく見たらグロテスクじゃない?」って私は実感している一方、彼らからしたら「今流行っているものを楽しんでる!」ってことが彼らの実感なんだろうなって。

泉:逆にそういう人たちが僕の作品を見たらどう感じるのかなってことを考えた時に、「今まで感じていた実感は、本当に実感だったのか」っていう問いになればいいのかなとは思います。

橋本:僕が若い時だと、「世界の中心で愛を叫ぶ」っていう映画があって。それを僕は馬鹿にするわけですよ。「馬鹿じゃないのか」って(笑) そんなの映画だけだよ…とは言わないけど、そんな安っぽいものに騙されんなよ、みたいな気持ちがあったんだけど、でもそれはそれで彼ら/彼女らの実感なんじゃないかと。当たり前だけど、違う感情を持つ人間っていうのは沢山いて一律じゃない。「これが私の真実だ」と言っても、相手が感じてることも真実なわけで。この前の選挙でも、Twitterで見てたらもうちょっと与党以外の政党に票が入るのではと期待したけど、現実を突きつけられる。自分は、大勢が共有するリアリティを実感し得ないのかなって。

泉:大勢の人が獲得しているリアリティっていうものは、恣意的に作られたものなんじゃないのかっていうことは前作で特にフォーカスしたつもりです。本作の冒頭ずっと役を入れ替え続けるっていう方法には、「誰それ個人ではなく、人間たち」と言う感覚、5人の俳優たちが物語を共有して進めていくっていう感覚があると思ってて。そういう「みんなで共有している物語」が、本当の実感に接近するにつれて、個人の物語に解体されていくっていうことは、何かの批評性につながるのかもしれないなと今、そう聞いて思いました。

橋本:観ていて、「妊娠」っていう事象はやっぱり「リアル」に感じるんだなと。でも、性行為をしなくても子供ができる時代が当たり前になる。リアリティは、これから先どうなっていくんだろうね。

<生まれる瞬間と死ぬ瞬間、そして現在>
橋本:この作品を見てると、登場人物に対しても、泉さんに対しても「生きてて楽しい?」ってすごく思ってしまう。「もっと楽しめばいいよ!」っていうわけじゃなくて、何を楽しいと思って生きているかが知りたい。

泉:それは、リクリエーションするにあたって、少し大きく芽生えてきた視点に関わってくるかなって思います。なぜ実感を持てないのかってことを考えて、その実感がないよねっていうことを強いテーマとして初演時には書いたけど、それをそのままするのであったらリクリエーションする意味がないかなって風にも感じてて。その時に、「生まれてくる」ってことが実感が持てない・持たないようにしているというか…「今を生きる」ということだけがすごく重要視されているんじゃないかという感覚があって。

橋本:「今を生きる」っていうことは強制されているって感じがする?

泉:まあ、そうですね。「今を生きろ」というよりかは、「今を明日のために使え」みたいなことを強制されているような感覚かもしれません。本当は生まれた瞬間と死ぬ瞬間って絶対にある瞬間なんだけど、そういうことはあんまり考えないで、明日どう豊かになるかってことしか考えない。

橋本:メメントモリするな、っていうことかな。死への現実感を持たせたくないっていうか。社会的な仕組みとして、人間が死を恐れないように生きれるようにできている。

泉:この作品は人身事故に立ち止まらない人々が出てくるんですけど、それは、自分の明日の豊かさのためには、そんなことに対してもう立ち止まってられないっていうことを考えながら書きました。

橋本:「まちがいない。」の時に、ホットプレスプラスにも書いたんですけど、オーストラリアのテロのニュースが流れてきた。それも無かったかのように流れていった。最近京都アニメーションの事件があったじゃないですか。知り合いがツイッターでその火事の写真を事件当日にあげてて、次の日にそれが京アニの事件だったんだってニュースを見て気付く、という事があったんですよね。日本、しかも京都で、知り合いが見た。より近くなったのではないか?と感じたが、そんな実感を得ていく過程さえもツイッター上では流されていって。全てに手触りのある現実感が無くなってしまうというか。立ち止まって考える暇もない。

泉:環状線にずっと乗ろうと思ってたけど、降ろされたっていうのはなんとなくそれを表現したくて書いたんですよね。立ち止まらせてくれないっていう感覚が僕の中にあって、それはアカリも感じてることなのかなって思います。

橋本:多分立ち止まっても大丈夫なはずだし、立ち止まった人もいる。でも社会としてフォーカスが当てられないだけかもね。

 

<電車というモチーフ・刺激の中で生きている>
橋本:たばことかお酒とかドラッグだとかに頼って生きることっていうのは、ある意味生きるための術だと思うんですよ。依存できるものには、世間の事なんかどうでもいいって思わせる力がある。じゃあ依存して誰が困るんだっていったら、倫理的な問題なのか、本人が社会的に繋がれない・交流することが出来なくなるからということなのか。現代は、何が善で何が悪かが分かりづらい。「自分が納得できて、自分が熱いものを感じて、世界に発信すれええやん!義務教育なんて押し付けやん!」って、いっとき話題になった小学生Youtuberが言う 。そういう感覚を発信して、広告料を貰って食っていけるなら、それはそれで立派な生き方なんじゃないですか?って。でも、そうだけど、そうじゃないんじゃない?っていう選択への疑問があって。…彼の事どう思いますか? すごい「実感持って生きてます!」って感じですけど

泉:すごいそんな感じはしますね。

橋本:「けど目が死んでるよね」みたいな事も言われるわけじゃない。「親に言わされてるよね」とか。

泉:あれは一種のこちら側と言うか、システムに取り込まれてないようで実は取り込まれた人間なのかなっていう。

橋本:でもシステムがない状態ってどういうことなのかな。…システムって何なんだろう。

泉:僕が「まちがいない。」で思ったことは、システムって分業されていって、直接何かをするってことが無くなっていく。だからこそ魚の切り身が海を泳いでいる、みたいなことを言う子供が出てくる。システムを否定はしないけれど、それを無批判的に受け入れてしまうと実感の喪失を起こすんじゃないかっていうのが前作のテーマで、それを作った後の自分が「うさり」を考えた時に、妊娠と言う出来事に社会は立ち止まらせてくれないって思ったんです。それこそ、満員電車の人の波に流されて、押し出されるような。留まっていたいけど、留まらせてくれない。生と死っていう終わりと始まりのことを考えずに、「豊かな明日」のために電車を乗り継いでいくっていう…だから今回の作品には結構「電車」っていうイメージはあります。

橋本:イロリムラで上演する意味がすごくあるなと思う。間近を環状線が走って、観てる時も電車の音がちょっと聞こえてきて。この作品にとってはそのノイズがかなり活きてる。あの電車の音の中に大勢の人間が詰まっていて、疲れた体で運ばれてそのまま家に帰っていくし、自分も芝居見た後あの電車に乗って帰っていく。満員電車に乗るって、当たり前と言えば当たり前だし、異常と言えば異常。そういう空間に隣接している場所で上演される事が効いている。終演後に外に出て環状線の高架を見上げたとき、観客にも何かを思ってほしい。観客自身が想像できる作品になるといいなと思います。

泉:それは意識して電車のシーンは増やしましたね。

橋本:人が色んなところに行って、色んな人と出会える為に、って電車は作られたはず。そういうところからスタートしたものが徐々に、楽に、効率的に、お金をもっと稼げるように、って変容していく。


うさぎの喘ギの作品を見ると、能動的に行動することの面白さについて考える。それがこの劇団を観る事の一つの効果だなって。でも、逆に「楽」に観たいって考えてしまうと、いやもっと即効性のある強い薬ぶち込んでくれよ、みたいなことを思ってしまったりもするんですよね(笑)。刺激的な作品とか、シーンとかに慣れちゃってるから。この芝居を最初から最後まで見た時に改めて思うのは、本当は人って、少し触られるだけで感じるし、少しの刺激だけで色んなことを思って、色んなことを考えて行動するんだけど、過剰なまでの刺激に曝されながら生きているから、色んなことに気付かないままになってしまう。この作品を見ていると、そういう繊細な感覚を取り戻せる。劇中、繊細に繊細に紡いでいかれる時間は観る側にも同時に蓄積されていき、俳優がアクションを起こして、相手の俳優にリアクションが起こった瞬間、それが凄く大きな火花に見える瞬間に変わる。そんな繊細な変化こそ大切なことだったんだって思えたという事は、豊かな観劇の時間だったんだなと。まあ、繊細過ぎて最初の10分で寝られたら困るみたいなこともあるけど(笑)

泉:今回それはめちゃくちゃ意識してますね。今回劇場の中を子宮をイメージして作っていこうと思っていて。それも、「リクリエーション」・「生まれ直す」、つまりこの劇場を子宮的な空間にすることで、登場人物が実感を取り戻して、子宮と言う今の感じないように守られている世界から出て行くっていうことを、お客さんにも同じような作用を起こすことが出来たらなと思います。

橋本:登場人物が劇中に毛糸で紡いでいくものが自分の生まれる前の姿に見えてしまったりして、それが解かれていく瞬間に胸が痛かったり。子宮の中って残念ながら覚えてないんだけどさ、羊水って純水のようなイメージがあって。なのに周りに漂っている台詞がどんどん羊水に混じる不純物みたいに思えてきて。もっときれいな水で在ってほしいって思うけど、そうもいかないよねって。人は不純物の中でいろんなことを思っていくし、知っていく。

<批評性・客観性・主観性>
―初演と印象の違いはありますか?

橋本:初演の時に感じた物足りなさは無かった。でも、この登場人物達はこの先どうなるんだろう?っていう事を知りたいとも思った。観客に想像してほしい部分でもあり、創り手に見せてほしい部分でもある。泉さんが決意した選択はこれだ、っていう作品も見てみたい。現代に対して批評性が凄くある作品だと思う。今生きている人たちをちゃんと俯瞰して見ているから、その視点自体がとても面白い。でも「で、君はどんな行動をするの?」っていう疑問であり期待をどうしても持ってしまう。初演の印象は「まだ何か表現したいことがあるんだろうな」。今回は、表現したいことがかなり見えてきていて、面白い。が、この人は今から何を思うんだろうということを知りたいとも思ってしまう。

泉:それは「まちがいない。」の時に三田村啓示さんにも言われました。現代の批評性は高いけれども、それに留まってしまっていて、表現したいことの先、どう感じてるのかってことを知りたい…みたいなことを仰っていたような気がします。

橋本:私が作品を作る根源って、怒りとか、共有したいとか、自分の「わがまま」を提示しつつ、それでも繋がれると期待しつつ、でも、最終的には他人がどう思おうが関係ないという所に行きたいとも思ってる。若い人達にも同じような感覚を期待してしまっているだけなのかもしれない。演劇って手間暇もかかるし、役者さんを何か月も拘束してっていう中で、自分のわがままを通すことのしんどさっていうのは、作・演出が抱える一番大変な部分だと。でも、「僕はこう思ってるんですよ」「こうしたいんですよ」ってことを作品に織り込むと、作品が熱を帯びてきて…それは「熱い芝居」っていうわけじゃないんだけど、その熱が観客として観た時に、観客が辿っていく道筋に思えてくることがあって。批評性だけだと、俯瞰図だから何処から見ていけばいいんだろうって瞬間がある。最近のおっさんたちは、「若い子は賢いよね」ってよく言う。若い子は自分のことを客観的に見てるから。客観的に生きることが出来る若い子を尊敬しながらも、主観的に生きることが出来てないんじゃないかと不憫に思ってしまう。それは作品でも一緒というか、「世界がそう出来てる事はわかった。そんな事より君を知りたいんだ」っていう下品で熱いおっさんたちの時代があったと。

泉:僕らの世代は、より相対主義が進んだんですよね。もう何が正しいとかっていう絶対的な価値観なんて存在しないってことが当たり前になってしまってるから、何か言っても、あなたはそうなのねっていう風に言われるだけっていう感覚が僕らの世代にはあって。

橋本:「それは違う!あなたは間違ってる!」って言われたらどう反応するの?

泉:あなたは違うって感じるのね、ってみんなそういう風になっていってると思います。でもそれが、最終的に人間が何を根拠に生きて行くのかっていうことになったときに、感情しかないのかなって風には感じてるんですけど、それをどう表現するのかってことに苦戦してて。あとは相対主義が進んでもたらされたものとして僕が感じているのは、「迷惑かけんなよ」っていうのが絶対の正義だということ。相対主義だから、好きにしたらいいけど、迷惑はかけるなよっていう、そういう正義だけが残っているっていうのが僕の印象なんです。でもそれをそのまま「迷惑かけないで生きましょう」って時代を進めていくってことはまずいんじゃないかってことは思ってて。

橋本:「迷惑」っていう言葉から、人がどういう「迷惑」を想像するかだよね。いろんな迷惑があるんだけど、「迷惑」という言葉に集約されるとそのグラデーションがなくなってしまって、でも極論で語らないと伝わらないっていうジレンマもある。

 

<実感を獲得する瞬間>
橋本:この前名古屋で演出させてもらった一人芝居も、社会に対して実感を持って生きられない登場人物の話だった。登場人物がうまく生きられない社会から逃げて役者になりたいと願って、台本を読みはじめ、部屋で一人、色んな他者を演じている時間だけが実感を持って生きられる時間になって、その時間がどんどん積み重なっていって、最終的に、その時間の積み重ねから得た感覚が、社会で生きる絶望を希望に転換して終わるっていう話。一つの言葉や出来事だけで実感を獲得するんじゃなくて、反復していく経験の中で実感は積み重なっていくものというか。

泉:それは稽古中もずっと話してて、実感を感じる瞬間は突発的なんだけど、積み上げていくのは突発的じゃなくてじわじわと積み重なっていく感覚があるっていうのを感じてます。でもそれはある種矛盾してるというか…難しいです。一人の俳優に一人の役が集まっていく瞬間をまだ決めきれてないのは、その難しさをどう演出プランとして乗り越えるかっていうことがあって。

 

<実感を持って死ぬ>
橋本:台本を書き直していると言っていたけど、どの辺りを書き直してるの?

泉:初演では妊娠という「生まれる瞬間」にはある程度フォーカスできたんですけど、今回はもうちょっと「死ぬ瞬間」にもフォーカスしたいなと思っています。それで人身事故のシーンを端々に入れてみたんです。あとは、もうちょっとうまく機能させられるようにしたいんですけど、介護の現場にいる登場人物を出してみて、「生まれる瞬間」だけではなく「死ぬ瞬間」も僕らは端に追いやっているっていうことはこの作品をより大きく作るためには必要な点かなと思っていて。

橋本:それは観ていても感じた。「終わり」の部分を見ようとしているなと。死にたくないとも思わないけど、死にたいとも思わない。

泉:僕教育大で、教員免許を取るために介護等体験っていうのに行ったんですよ。まあ、やることって言ったらほとんどその入所者の方とお話しするって感じで、実際の「介護」とは全然違うんですけど、それでもやっぱり衝撃的なことはたくさんあったんですよね。昨日は楽しくお話ししたのに、次の日にはもう名前を忘れていたり。

橋本:それこそ、実感なく死んでいく瞬間なのかもしれない。自分が育てた子供の名前もわからなくなっていってしまう。でも、自分もいつかそうなるんだけど、そうは思いたくない。死の瞬間が見えにくいよね。

泉:そうなんです。で、調べたら、そういう入所者の方で、認知症の方でも意思表示があれば選挙に投票できるってことを知ったんです。これからそういう人たちの割合は増えていくわけじゃないですか。なんか、その人たちにも当然投票する権利があって、でも、それはもしかしたら、カラオケ大会とかと同じようなイベントみたいに感じるのかもしれない。それって、「実感の喪失」じゃないですか。何もわからないまま、イベントとして楽しむ。でもその何もわからない人たちなりの「実感」が、そういうイベントを通してあるんだったら、それはそれで楽しいなら、それまでも僕は咎めるのかっていうことを思い始めています。

―お話が盛り上がっているところ恐縮なのですが、そろそろ…

泉:すみません(笑)

橋本:「不公平だから選挙やろうぜ」って最初に言った人が、共感して実感持ってみんながみんな投票してっていう時代から比べたら、衰退じゃないですけど…持続し過ぎた部分もあると思うんですね。持続し過ぎた部分が、これからどう変化していくべきなのかって、今生きている人は誰も経験してない。その経験したことがない事象を、今こうして演劇でやろうとしている中で、その中で「実感」って何だろう、「生きる」って何だろうって考える事はとても大事。戦争があって、高度経済成長を経て、日本が元気になって、元気を持続し続けようとする中で衰退の気配を感じはじめて「もしかして進む先が違うんじゃないか?」って今感じている。未来を変える為に、どこにメスを突きつけるのか。その刃がこの作品にはある。刃の先は観客が想像出来る。これから我々がどこに刃の先を向けるべきかと考える実感を持って観てほしい。登場人物の誰かがこの芝居のあとに取り返しのつかない犯罪を犯しても全然不思議だと感じない。むしろ、登場人物たちが老後、孫達に囲まれて楽しく生きて死んでいく姿が想像できない。これが現代のリアルでもあるんだなと思いました。

泉:ありがとうございます。

 

橋本匡市

演出家・劇作家・宣伝美術家。 
万博設計代表・ウイングフィールド企画主任
2005年、近畿大学文芸学部芸術学科演劇芸能専攻卒業。
近畿大学在学中に劇団「尼崎ロマンポルノ」旗揚げ。全作品の作・演出を担当。
ウイングフィールド、KAVC、こまばアゴラ劇場、精華小劇場等主催の演劇祭に参加。
2012年、演劇企画団体「万博設計」を立ち上げ。
『幽霊’』がPrism Partner’s Produce 平成26年度採択。
第22回OMS戯曲賞最終選考ノミネート。
『苔生す箱舟』で、佐藤佐吉演劇賞宣伝美術優秀賞受賞。
『駱駝の骨壷』第25回OMS戯曲賞最終選考ノミネート。
生田萬、岩崎正裕(劇団太陽族)、佃典彦(B級遊劇隊)、松本裕子 (文学座)、高橋正典(文学座)などの演出助手も経験。
公演に加え「俳優設計」等の稽古プログラムも不定期に開催。
2019年10月、アイホールにて大竹野正典氏の『リボルバー』を演出。

ウイングフィールドでは「ウイングカップ」「旅劇」「ディレクターズワークショップ(大阪)」「スタッフワークショップ『コレダケ』」等の企画立案、運営を行う。