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​dracom・筒井潤さん×うさぎの喘ギ・泉宗良

​「ニュータウン」をキーワードとして描く「まちがいない。」

今回は大阪・千里ニュータウン出身の劇作家・演出家の筒井潤さんに通し稽古を観ていただき、対談をさせていただきました。

<「ニュータウン」について>

 

―今回筒井さんにこの対談を依頼した理由は?

筒井潤さん(以下、筒井):僕が住んでたからでしょ?

泉宗良(以下、泉):まあ、そうですね。僕は、和泉市の方、和泉中央にあるニュータウンに住んでいて、筒井さんは吹田の、千里ニュータウンの方に住んでいらっしゃって、ニュータウンでもまた全然違うと思ってて。やっぱり吹田の方はどんどん開発されていってるのが残ってるのかなって。

筒井:どうなんかなあ。最近ちょっと建て直してキレイにはなっていってるけど。

泉:僕の住んでるニュータウンは本当に、バブル期にベッドタウンとして作っていって、それとは全然違うのかなって。

筒井:全然違うよね。だってバブルの時に作ったんでしょ?そしたらもう建ててる時点でニュータウンじゃないよね。

泉:そうなんです。だから「このまちなんなんやろう」って。でもちょっとずつ変わってもいるんですけど。

筒井:確かに、バブルの時って、ちょっと離れたところにそういう、都会で働く層の家族の住む場所がたくさんできたよね。でも、僕はコンセプトはおなじやけどタイミングが違うから。高度経済成長期で、バブルではない。70年代なんですよ。だからずいぶんと風景が違うなと、(作品を)見てて思ったんですね。

―それは、この作品を見て透けて見えてくる泉くんの住んでいる風景が違うということですか?

筒井:そうそう。ここで描かれているのは現在進行形というイメージなのか、自分の記憶を振り返るという感じなのか、書いてる瞬間はどういうところに泉くんはいるんですか?

泉:結構自分の中では現在進行形なんですけど、「自分が暮らしてきた」まちのことを振り返った時の現在の自分って感じですかね。「このまち出ようかな」なんてことも考えたりするとかは、登場人物と僕の思ってることとして、現在のこととしてつながってくることで。「このまちって何なんやろう」って考えた時に、ずっとそういう、忘れてたことを思い出して、現在の自分が考えてるって感じですね。全部過去ってわけではない。

筒井:今の話聞いて単純に面白いのは、「出ようかな」っていう意志の揺れ動きが描かれているところはあるんですけど、「ずっといる」っていう人もいるっていうことですか?

泉:やっぱりそれは、いると思うし、登場人物として「(このまちを)出ない」って選択をした役が出てくる必要があると感じたのは、「田舎」みたいなものがどんどん無くなっていくっていうか、ニュータウン的なものがやたらめったらある状況の中で、100年200年、もっと前のことを考えた時に「盆踊り」とか文化っていうものを作ったみたいに、ニュータウンが100年後、今の「文化」みたいな形の捉え方をされるような時代が来るんじゃないのかな、みたいなことを考えた時に、ニュータウンに住み続けたら、そこが田舎になる人が絶対出てくるってことを考えて、そういう選択をする人物が出てくる方がいいかなって思ったんですね。そこ(ニュータウン)には文化とか伝統とかってないよねって気持ちももちろんあるんですけど、それを批判するんじゃなくて、でもそれって仕方のないこととして、何を打ち立てていけるのかってことを考える人が出てくるだろうってことを思って、そういう役をやってもらってます。

筒井:ニュータウンって概念がよくわからなくて。今建っていってるものとか、バブル期に建ったものもニュータウンっていうんだね。

泉:僕もその、ニュータウンってものが実際に「これや!」ってものを示してるのはどこなのかなって。ニュータウンのことを調べたら、戦後すぐでもニュータウンって定義づける人とかもいたりして、なんか、幅が広いし、でも今気になってるのはそのニュータウンって呼ばれてる場所が、「トカイナカ」って呼ばれ方をして、緑もあっていいベッドタウン的だよねっていう風な呼ばれ方をしているのも、ちょっと引っ掛かりがあるというか。

 それはよく言われる、「人間が恣意的に残した自然って自然じゃなくないか」ってことと同じようなことを「トカイナカ」って言葉には感じてて。僕の中のニュータウンのイメージはずっと住んでいて、バブル期にできてしかも今はトカイナカってラベルも貼られて、っていう場所。それが僕の原風景としてのニュータウンなんですけど。でもニュータウンって言葉の定義としてはもっと広いとは思うんですけど。でもそこは、甘いんですかね?

筒井:いや、甘いっていうか。一応教科書に載るくらい千里ニュータウンっていうのはニュータウンの象徴で。でもそれ以降はマンション群っていうか。まあ、まちができる規模ではあるんだけど、「千里ニュータウン」って言葉はもはや歴史的な固有名詞なんですよ。あそここそ「ニュータウン」って呼ぶってこと。

 でも、今話題になってるのは、おそらくマンション群であってニュータウンと呼ばれること前提で作られてるかってことは…千里ニュータウンはもう「ニュータウン」って呼ばせるっていうのが戦略としてあるんですよ。そこの違いがずいぶんあるんで。象徴なんですよ。高度経済成長の。

 僕が住んでた千里ニュータウンっていうのは、すごろくの途中ってことが前提なんですよね。あそこにずっと住むっていうイメージはあんまりない。生活のプロセスなんですよ。あそこで若い夫婦が住んで、子供ができたりして、でも狭いんですよ。だから、そこを出て一軒家に住むとか大きいマンションに展開していくっていう、途中なんですよ。千里ニュータウンはそれが前提なんですよね。「仮住まい」みたいなイメージが実は千里ニュータウンに、僕にはあるんですよね。実際僕も4歳で出ちゃったし。まずそこがずいぶんちがう。ただ、僕が出て行って以降の千里ニュータウンのイメージっていうのは、まさに(この上演で)描かれてることに近いっていうのはあるんですよね。だから僕が住んでたころの千里ニュータウンとは違う。

 僕が20年前くらいに書いた「空腹者の弁」って作品のなかで、僕はすでに台詞として「私の故郷、千里ニュータウンはますますニュータウンって、わかる気がする」って、一周回ったことを言ってるんですよ。すでにその時にもうやばかったんですよね。その、退廃ぶりが。だから、バブルの時に建ててたってのは、その僕の概念としてはちょっと違う。だから(泉くんの住んでるところは)多分ハイカラなんですよ。もうちょっと古く(古いニュータウンに)なると、外国人がどんどん入ってきてるんですよね。今そっちの話題で持ちきりなんですよね。だからちょうど、今ニュータウンから出て一軒家建てたのにその周りがマンション群になってるみたいな、よくわからない展開になってるんですけど。

 作品のなかに「個人経営のカフェがある」みたいな話が出てきましたけど、僕の家の近くのマンションには、もうマンションの中にカフェがある。それが、当時堀江とかのカフェをデザインして賞とったみたいな人がそこのカフェデザインしてる。とか、マンションの一角を堀江のカフェみたいにしちゃってるみたいなのもあるんですよね。

泉:僕が感じてるのは、その個人の経営してるカフェっていうけど、実はオーナーがいて、ある程度デザイン的に決められてて、個人経営風っていう打ち出し方で作られてるカフェがたくさんニュータウンとか、トカイナカの周りにできてるなってことを感じてて。

筒井:でも見てて面白かったのは、人が住む場所なんで、どういう人が住んでるか、例えば外国籍の人も含めて今とにかく多様性とマンションとか団地とか、そういった集合してる場所っていうのを問われる中で、本当に自分の世代だけを切り取ってるなっていうのがあって。今みんなが多様性を問いたがるんですよ。いろんな人が住んでる場所として。その必要性を感じてる人がほとんどでしょうけど、中には安易なものもあったりする。でもその多様性を問わずに自分の層だけをスッと拾ってるみたいなところが、面白いなあと思ったんですよね。そういう意識はあったんですかね?

泉:まあ…でも今思ってるのは、多様性を問うことが今の自分にできるのかっていうことと、あと若いうちは、自分の感じてることを書いたものを作りたいっていう欲求の方が高いのかもしれないなって。多様性を排除しようっていう意志は全然ないんですけど、それはもしかしたら自分の描けること以外のことを描くべきなのかってことを考えてるっていう面もあるんですけど、視野の狭さみたいなものなのかな。

筒井:いや、それは広さ狭さじゃないと思いますけどね。それは単純に興味の問題だと思う。どっちが優れてる優れてないの話じゃない。どこに着目したかってだけの話なんで。そこが面白かったと思うんですね。流行りとして簡単に「多様性」に食いついちゃってる人はいると思うんで。そうしないことでで興味深いものになってると僕は思いますけどね。それで全然いいと思う。

<祭りについて>

筒井:「祭り」に着目したのはなんでなんですか?

泉:それは本当に実体験として、夏祭りが盆踊りやのに盆とちょっと違う時期、8月末くらいにあって、それはいろいろな事情があったりしてずれてたりしてて、しかも、子供のころは祭りの出店とかってマンションの組合の人だったんですけど、いつのまにか業者の出店に代わってるなってことを最近感じたりして、すごく、ニュータウンっていう文化とか伝統とかがない場所で、祭りをしようってことの難しさみたいなことを感じてて。それがすごい、どう向き合っていくべきなのかなってことを思ってて。祭りって前からあるものって固定観念が強すぎて、10年前に始まった祭りやのに、ずっとあるような気がしてる人がいるってことは、この社会の恐ろしさかなとも思ってて。知らぬ間に変わっていくことが多すぎて。それに、気付いた彼が最後にはそちら側、祭りを作っていく側に加担していくってことは、そういうシステム的なもので人間の行いが代替されていくっていうことを、生活の一部となってしまっていて止めることが出来ないっていうときに、どれが正解ってわからないけど、受け入れていくしかない面もあるっていうことは、二人の祭りについての会話と僕が結び付けたいなってことですね。

筒井:祭りっていうのは、コミュニティの、人の交流を活性化するためにはあったほうがいいんですよ。で、実際その盆踊りとかでも、もう「BON」って書いちゃったりして、櫓の上にいるのはDJだったりして。そういうモダンな盆踊りが発展していってる中で、一方で、本当に長年続いてた祭りが順調に続いてるかって言ったらそうでもなくて。そこも商業的に企業が入って、観覧席作ってお金とってたりとか。担ぎ手が少なくて外国人のボランティアに参加してもらったりとか。一つの象徴ではあるけど祭り自体がどんな地域・状況においても成り立たなくなりつつあるって中で、誰がそもそも祭りをやろうとしてるのかってことだけしか最後残らなくなっていくと思うんですよね。そこがおかしくなったらもう意味がないんですけど。

 だから、いくら胡散臭いなあって思っても、そのコミュニティのためと思えば、必要と考えた上で、そこで無理に伝統とかにしようとか文化を守ろうとするとおかしくなる。そこは、みんながどうしたらいいんだろうって悩んでるところではあると思うんですよね。だからあの着眼点もよかったんですよね。ちなみになんですけど、千里ニュータウンっていうのは、万博っていうまあ国際的な祭りのあとの従業員がいなくなった空っぽのところに住むっていう。だから僕は、祭りの後に、僕1971年生まれなんですよね。だから祭りの後にそこでぽこって生まれたような子で、ものすごい祭りがないっていうことの喪失感を高校生くらいから感じて。ちょっと自転車で10分くらい下ったところでは、いまだに神輿かついでる祭りがあるんですよ。友達がそこで神輿かついでるの見たりしたときに、なんかこう、それがうらやましいってことは思わなかったけど、「ないところに生まれたんだなあ」っていう単純な、実感はすごいあったんですよね。

泉:僕も、和泉市の隣が岸和田市で、すごい祭り、だんじりじゃないですか。それはすごい感じてて。

筒井:だからほしいとかじゃないけど、「ないなあ」っていう実感は異常に強い。

<ニュータウンに建ち並ぶマンション>

筒井:最大の違いは、そこに住んでいられるかなんですよね。僕は4歳で出て、親も出て行く前提でそこに住んでたし。収入が少ないからそこにいた、みたいな。住んでいられるっていうのとそうじゃないっていうのが、時代の違いをすごく感じる。千里の方ではリノベーションとかしたりしてるけど。あとはもう単純に、今建ててるマンションでさえも、どうすんねんって思うんですよね。人口減るのに。ちょっと無茶なんですよね。

 そもそも日本の住居の建築って地震とか、家が密集してて火事になりやすいとかっていうのもあって、木材を使って建て直しやすいように住まいを作るっていう文化なんですね。地震がきても大丈夫ですってマンションあるけど、じゃあみんなずっとそこに住むイメージ持てる?っていう。そこがすごく怖くて。建てすぎやろっていう。

泉:地元でもちょくちょく(しか建ってない)ですね。リノベーションするほどは時間が経ってないっていうのも違いなのかなと。バブルの時にってことで。

筒井:何年に建ったってわかる?

泉:自分のマンションは、20年前くらい。僕が生まれてすぐくらいにできてって感じで。

筒井:耐震性とか大丈夫なんかね。

泉:あーまあ…でもなんか、地盤がそんなにやわなところではないから、あんまり話聞かないのかなって。

筒井:いずれにせよ見栄えが古くなってきたら作り変えるし、改築するし、その時に、「する?」って雰囲気出るんですよ。

泉:でも5年前くらいにペンキは塗り替えてましたね。

筒井:するでしょ。ペンキくらいは塗り替えるけど、「まだみんなここにいるっていうイメージ持てる?」っていう。実際僕が4歳のときに引っ越した先の住所にかっこいいマンションがあって、で、今もまだあるんですけど、もうそこおじいちゃんおばあちゃんしか住んでないし、子供はみんなでてったから。そのマンションの1階にあったスーパーはマンションの人たちが買い物に来るスーパーやったけど、もうそこがデイサービスなんです。

泉:そこが逆なんですよね。うちはこの5年くらいでスーパーが2つくらい増えたんです。そこは多分、千里の(ニュータウン)があがっていったところを、後追いしてるのかなって、微妙なんですけど。

筒井:そこは微妙なんよね。その近所にあったかっこいいマンションは、僕が小学校に入る前くらいできたんよね。最新やったんです。そこに入ってるスーパーはデイサービスになってたりするけど、その周りには最近新しいマンションがボコボコ建ってるんですよ。だから、目の前のマンションが、住居人が減ったことで寂れてきているのに、そこには人は住もうとせずに、すぐそばに新しいマンションが建つみたいな。意味が分からないですよね。

泉:自分の住んでるマンションには、そういう感覚はなくて。通ってた小学校も、1学年5クラスは維持してるし、人が減ったっていう感触はないし、スーパーばっかり立ってて。こんなにスーパー絶対いらんやろ、みたいな。

筒井:いや、今はいるんですよ。局所的にマンション建てまくって、子ども増えすぎて。でも同時に、千里ニュータウンヤバいみたいな。再生に必死にならんとあかんところもあるってことなんですよね。今日本人が住まいを獲得するってこととまちを作るってことは、とってつけたような新しいことばっかり。結局、誰かが金儲けのためにまちを作ってるんですよね。

泉:それはすごい感じますね。鉄道会社とかが儲けるためにまちをつくって、そこに路線を伸ばすみたいな。

筒井:それと今の上演ってのは、考えると深いなあって気はするけど。大きな経済の中に暮らしてる若者っていう。

泉:そういうことは描きたいなと思ってて。でも、コミュニティってところが描き足りなかったのかなとも思います。

筒井:でもそういうのって良くも悪くも流行りになってしまってて、団地のコミュニティに外国人が入ってきてるとか、そういう書籍もたくさん出てるし。だからいい視点だと思いますよ。そこに住んでいながらうまくコミュニティに混ざれなくて、同世代とばかりコミュニケーションしてる日本人の若者の空虚感みたいなことは。