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​d浄土宗應典院/うんなま・繁澤邦明さん×泉宗良うさぎの喘ギ・泉宗良

ウイングカップ7最優秀団体である「うんなま」代表であり、2月の空の驛舎「ムスウノヒモ」では中筋が共演させていただいた繁澤邦明さんと

対談をさせていただきました。

<歯と清潔感>

中筋:見ていただいた率直な感想をお願いします。

繁澤邦明さん(以下、繁澤):面白かったです。まず、(上演が)45分で終わるのが面白いなあと(笑)。で、通しを観ている最中に気づいたんですけど、二面舞台なんですね。

泉宗良(以下、泉):やってみたかったという欲求もありましたね。清潔感みたいなものがテーマにあって。だから舞台にはブルーシートを敷いています。あとはこの作品のテーマのひとつは「気付かないうちにシステムに取り込まれている」ということ。ふるさと納税もそう。納税している側は返礼品などが貰えるからという意識で納税していて、でも行政的には都市部に集中したお金を分配するという意図がある。そういう本当の意図に気付かないまま乗っかっているという、主体的に行なわれている行為が、実はシステムによってやらされている、みたいな。

繁澤:清潔感がテーマ。そう言えば、歯医者の話が作中何度も出ましたけど、何故、「歯」があそこまでモチーフなんですか?

泉:結構思いつきな面もありますが、僕が住んでいるニュータウンには歯医者がとても多くて。それもある種、清潔さのイメージになるのかなと思って。間違ってはいけないとか、清潔でありたいと整理整頓されていくうちに、あまりものを言えないようになっている。そういうものが歯磨きと繋がっていると思って作り始めました。

繁澤:確かに舞台上、俳優の演技やたたずまいからは、清潔というキーワードに納得するところがあります。それもふまえて、最後のシーンなんかは、実はすっごく気持ちの悪い行為なんだなと。

泉:それは僕も思います。

繁澤:最後のシーンでやっていることは、綺麗になろうとしている行為ですよね。それが気持ち悪く見えているというのは、うわー、いかついな、と(笑)。あとは、台詞の喋り方ですよね。本当の発話としておこなっているのか、もしかしたらLINEとかのケータイ的なやりとりの表現としておこなっているのか、どっちなのかなと思って見ていました。どちらでもいいっちゃいいんですが、通し後のダメ出しの時に泉くんが「(台詞が相手に)飛んで欲しい」と言っていたのを聞いて、ああ、コミュニケーションの欲求は見せたいんだな、と思ったのが印象的でした。そもそも、ぼそぼそもごもご喋ることによるグルーブ感がありましたよね。あれは独特の空気でいいなあと。特に、田中さん(女優)の声の飛んでなさ、舞台上での外界との対峙の仕方とか、僕は好きだったなあ。

泉:僕もモノローグかな、と思うくらい曖昧な感じで読んで欲しい台詞もある。でも会話を取ろうとしているということが大事な瞬間もあると思っている。

繁澤:会話というか、言葉を相手に向かって出そうとしているのと、相手の言葉を受け取ろうとするっていうのは違いますよね。この作品は、俳優の話し方として、まるで相手に届けるつもりがないかのようにポロポロポトポトと発話する人がいて、一方では相手の言葉をだいぶ感受性高く受け取ってリアクションしている人の2パターンがあって、その違い、ギャップがある意味めっちゃ面白かったです。これ自体は、演技演出としては意図していないと思うんですが。

泉:それは意図してないですね。

繁澤:たぶん演出家からしたらノイズになっちゃってると思うんですけどね。難しいですね、そこを整えるのは。

泉:それは本当に悩んでて。

 

<実感のない身体・語り>

 

繁澤:うさぎの喘ギの作品って、漏れ伝わって来る評判を聞くと、身体性の喪失があると勝手に思っていまして。かつ、今回はテーマとしてまちの話がありますよね。ネットの話も出てくる。「ネットならどこへでもいける」という台詞がありましたが、明確にまちとの対比だし、現代的な身体性の喪失と繋がっているのかなと思いました。でも、作品を観ていると、実際の身体の光景として、だいぶ見応えがあったんです。…最後に盆踊りしているじゃないですか。

泉・中筋:???

繁澤:あれはもしかして、盆踊りじゃない…?

泉:僕たちは実感を喪失した身体をしたいと思っている。この作品のテーマはシステム的なことに乗っかっていつのまにかそうなっているということをしたいと思っていて。エピローグのシーンがテーマと繋がっていると思っています。

繁澤:作品の後半、もう盆踊りって言っちゃいますね、盆踊りの光景が、45分間の帰結としてとても面白いなあと思って見ていました。盆踊りもシステムみたいなものじゃないですか。でもそのある種伝統的なシステムによって、俳優たちが一斉に、一緒に動き始めた時に、奇しくも身体の存在が明確になったというか、「ああ、この人たちは生きていたんだな」と僕はある種の感銘をうけたんです。それまでほぼ突っ立っていただけの俳優が自分と他者の動きを明確に意識しだした瞬間に、彼ら彼女らが人間であるということを再認識した。

泉:それは面白いですね。

繁澤:実感のない身体と言いつつ、ダメ出しを見ていても、伝わることや繋がることを求めているのは「へえ」と思ったんですね。それゆえ、この作品がだらだらぼそぼそ話すだけの安易な演劇じゃなくて、ちょっと温かい話になっているのかなと思ったんです。そして終盤の盆踊り的な行為、光景によって、よりあたたかみを感じさせられたというか。自由な解釈すぎるかな~とも思いつつ。

泉:僕の中で実感のないということと、コミュニケーションというものは別の問題としてある。でもそういう風に意図したことはなかった。

繁澤:自分の実感がないことと、他者への実感がないことは違いますね。そう言えば、この芝居はモノローグ調の台詞はあっても、実際のモノローグはなかった。それも優しいなと思った。結局コミュニケーションはずっと続いているというか。

泉:第3回公演の時まではモノローグを書いていたが、その次の作品の時に「これはリアルではない」と思った。実感を失ったものを提示するということを目指したいと思った時に、モノローグで何かを語るということは本質的ではないと思って、モノローグを書く事をやめた。

繁澤:モノローグの時点で、既に実感があるというか?

泉:他者との会話において実感がないことを提示された方が、より実感がないと思う。モノローグとして実感がないと言われても安直すぎると思う。

繁澤:確かにそうですね。そういう視点がありつつ、結局泉くんがこの作品で描きたいことって、実感がないことからどうなることなんでしょう?実感を取り戻すとか、認識するとか。色々有り得るとは思うんですが、どこに狙いを定めているんでしょう?

泉:第3回公演が、妊娠した女の子が実感を持てないまま堕胎するという話で、第4回は震災で、僕らは大阪に住んでいて実感を持ちようがないものとどう向き合うか。今回の作品は、僕は和泉市のニュータウンで、劇団員の中筋は吹田のニュータウンで、お互いニュータウンに住んでいて、実感のなさが何故あるのか考えた時に、魚が切り身のまま海を泳いでいると思っている男の子の話を聞いて、社会から実感を隠されて育ってきたことが、もしかしたら一因としてあるかもしれないと思っている。それを描きたい。実感を失ってしまったのが何故なのか、ということを考える作品にしたい。

 

<作られた実感>

 

繁澤:実感という言葉を置き換えると何になります?

泉:難しいですね。(中村)ケンシさんはリアリティと言っていた。この作品でも、廃棄を捨てることに心が痛まなくなってきたという台詞がありますが、それが僕の言う実感のなさですね。だからリアリティとも言えるし、道徳的にいうと良心の呵責が薄れていくようなことかもしれない。僕は大学で道徳を専攻していて、なんで道徳の授業が要るのかという話があって、人を殺したらあかんということは誰でも知っているけれど、人を殺したらあかんということを実感として分からせる為に道徳の授業があるという話を聞いた時に、すごく演劇をしたいと思った。目の前で人が傷つく状態を見るのって、実感を得るきっかけになるかもしれないと思って、そこで演劇という表現を選択したきっかけにはなった。作品があまりそうなっていないけど(笑)

こういった作風を始めたのがウイングカップの時ですが、その時にあったのが、Twitterなどの情報が多すぎて、いちいち胸を痛めていられないという現状。それに対する防衛として実感を持たないということも必要だと思うのですが、ある種それが働きすぎて大事なことまで、今の現代人は忘れてるんじゃないの?ということが今の活動の大きなテーマ。今回の作品はなんでそうなっているのか考えてた時に、ニュータウンという整理整頓された町で暮らしていたら、生活的なものが隠されたりして、もしかしたら薄れていくのかもしれないということを考えたのがきっかけ。

繁澤:なるほど。ニュータウンも、言い換えると生活があまりに整理整頓された場所ということなんですね。

泉:僕の中ではそう。「トカイナカ」と呼ばれていて。それもまた気持ち悪くて。自分で山削って、また植えだすとか。この人(中筋)の住んでいる所はもっと進んでいて、動物園が近くにあるのに、VRで見るみたいな。

中筋: VRで動物の躍動を感じられる、みたいな施設があって。でもちょっと行ったら、動物園があるんですよ。なのに、バーチャルリアリティなんだっていう…。

泉:実感的なものを失ったことを隠す為に、実感的なものを付け足しているというのを、僕は「トカイナカ」に感じていて。(中筋が言ってた)キャンプがマンションの中で出来るという話にも感じたのですが、実感的な行為が与えられて行なう形に変えられていくと、魚の切り身が海を泳いでいると思う男の子が出て来るという話を聞いて書いたんですが、そういう世界になるのは怖いと思う。それのひとつの場所として、ニュータウンというのがあると思う。そういうのに対する危機感があって題材にした。

繁澤:作られた実感ていうのは、まさにバーチャルリアリティですよね。あと、先程言われていた、情報量が多すぎてしんどくなる的な視点は、泉くんから僕くらいの世代が持っている素朴な実感だし、もっと違う言い方をすると簡単に創作のテーマになっちゃうんだな、と。僕が以前作った作品もそういう作品でした。その時はもっと観念的な処理で(笑)、今の情報量の多さは(取捨選択や遮断を考えると)まるでサバイバルだね、みたいなテーマでした。…そうそう、この作品は、登場人物は結局、まちからは出ないんですよね?

泉:批判するんだという気持ちで書き始めたのですが、僕にとって故郷だとなった時に、それを批判するのではなくて、そこに何を打ち立てていくのか考える人が出て来てもおかしくないと思ったし、僕もそう思うこともある。僕の町は夏祭りがあるんですが、マンションの組合で祭をしていたのが、最近は出店業者に変わってきている。それを感じた時に、僕らが(祭を)やっていこうとするしかないのかなと感じた。僕が違うまちにいくのとは違うなと思った。

繁澤:そこは引き受けていこうとするんですね。モチーフとしての「歯」の話に戻るんですけど、歯って外のものを取り入れるためのものじゃないですか。そう思うと最後のシーンみたいな行為は、外のものを取り入れる準備と思うと前向きな行為だなと思いました。ディストピアではないんだと感じたし、繰り返しになりますが、盆踊りもいい景色だったんです。

泉:あれは僕らの身体論で同じことをするというのをしたかった。ただ、盆踊りの台詞が終ってすぐ全員立ち上がるようにしているので、繋がったら面白いなと思ってはいる。ただ盆踊りを踊っているわけではない。

中筋:たしかに足の運びは盆踊りっぽい。

繁澤:そうそう。しかも円形に動く。

泉:円形は何となくわざと…。

繁澤:清潔なニュータウンとか、Twitterとかインターネットならどこへでもいけるということとか、身体を通ってないものや、ぼそぼそ喋るようなことから感じていた実感のなさから、エピローグで快復していく様子を見たんです。そして最後のシーンで、外への準備という捉え方ができると思った。台詞で飛び降り自殺の話があったけど、それも実感の最たるものなのかなと思いつつ。体とまちの結実かなと。あとは「歯」自体、ニュータウンの街並みのメタファーかなとか。

…それはさておき、45分の劇構造として十分に見応えがあったんです。ニュータウンとか実感というテーマに対して、劇作家として明確に姿勢を提示して、かつその受容と快復の光景を(幼稚な否定、批判ではなく)描いているのは見応えがあって、気持ちが良かった。とっても前向きでポジティブで、春の爽やかさのある作品だと感じました。もっとうさぎの喘ギってネガティブかなと思っていたら、思いのほか読後感のいい話で良かったです。

泉・中筋:ありがとうございます。

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